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2008年01月31日

日記: アタリとマック

 所用で都心へ出かけたのだが、行きの日比谷線で向かいに親子が座っていて、わたしは銀座でおりて、彼らはそのまま乗っていった。用事と買物を済ませて、今度は銀座線で渋谷まで戻り、自由が丘で各停に乗り換えて空いた席に座ると、その向かいに件の親子が座っていた。「当たる」とはこういうことなんだなと思った。当たるときは当たるし、当たらないときは当たらない、要は確率ではなく時機の問題なのだ。
 ところでその親子は、実は親子ではなくて、というのもそのわりに対話が他人行儀だからなのだが、では少年(12前後)にとってその女は、親戚のオバチャンなのか知り合いのオバチャンなのか施設のオバチャンなのか、詮索するうちに駅に着いてしまった。少年の持っていた、大きくて白い箱も気になる。行きには持っていなかった。うむ。
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(ビルを、建て過ぎではないだろうか)
 MacBook Airを見ておこうと思ってアップルストアへ行ったら、まだ置いてなかった。何がどうなっているのかしらないが、CMで見る限り、ぎょっとするほど薄い。むろん必要ないので買わないけれど。今のiBookはそろそろ二年になるが、ほんまにようできた子で、トラブルは一度もない。念のため3年保証に入ったが、施行せずに満期を迎えそうだ(iPODも3年保証に入ったが、こちらは満期になると新品iPOD(同じ型)と交換してくれるのだそうだ)。今後の住宅事情にもよるが買い替えるなら、目下の悩みは手狭なモニターなので、iMacの24inchか。MacProはこれまた必要ないし。

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カタカナ: テレパシー telepathy

 テレパシーというと、以心伝心くらいのニュアンスで使われることが多いようだが、本来は隔離された部屋にいながらイメージをやりとりできる能力をいうのであって、透視や予知なんかと同じ、ESP(extrasensory perception:超感覚的知覚)の一種である。いうまでもないが、わたしにはない能力だ。
 tele-は、テレヴィジョン、テレグラム、テレフォンと同じで「遠距離の」という意である。もともとはギリシャ語。いっぽうの-pathyは「苦痛」「療法」「感情」を示す言葉で、こちらもギリシャ語のパトス(pathos:感情、苦痛)に由来している。ちなみにパトスに対する言葉がエートス(ethos)で、こちらは人の性格や社会集団の慣習を示す。パトス(感情)はエートス(性格)のように恒常的ではないが、一瞬のうちに何かを生み出す力になる、と古代ギリシャでは考えられていた。
 シンパシー(sympathy)はsym-(syn-)が「共に」という意味だから同情、いっぽうアンティパシー(antipathy)はanti-が「反対の、アンチの」だから反感、政治的な無関心を示すアパシー(apathy)は、a-が「〜のない」という意味なので無感情、ということになる。
 最近時々耳にする、ホメオパシー(homeopathy)だが、これはhomeo-が「同種の」という意味で、日本語だと「同毒療法」と訳される。フランス、イタリア、ベルギーなどヨーロッパでは盛んな療法だが、日本ではあまり普及していない。簡単にいうと、高熱を出した場合、さらに熱のあがる物質を少量投与して、身体の恒常性(ホメオスタシス)を促して熱を下げるという療法だ。寒中水泳みたいな話だが、アトピー性皮膚炎なんかには効くと聞いたことがある。考え方はとても魅力的だけれど、日本に馴染まないのはもっともな気がする。たとえそののちに良くなるとしても、一瞬でもさらに悪くなるのは嫌、みたいなビビリの(悲観的な)国民だからだ。だから戦争のことも謝らないのだな。

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2008年01月24日

日記: 継続と情感

 先日遺品整理のときに、おじいちゃんとおばあちゃんの日記がごっそり出てきた。座り込んで読んでいたら、仕事しろ、と怒られたので、そっくり自宅へ送ることにしたのだが、それが今日届いた。
 おじいちゃんは正規(まさのり)という名を体で示した人で、死ぬ直前まで20年近く毎日日記を書いていた。一日たりとも抜けていない。
「6月17日(水) 曇 19度 テニス3ゲームする おもしろい 農協で10万 育子から荷物が着いたと電話」
 という調子。単なる日録とはいえ、20年とは頭が下がる。残念なことにその勤勉な血はどの子供にも遺伝しなかったのだが。
 いっぽうのおばあちゃんは、色んな手帳にちょこちょこ書き散らかして、ちっとも続かない。1月の日記は豊富にあるが、次第に尻すぼみ、突如10月あたりにぶわっと書いて、また止める。さもありなんで可笑しかった。それでもおじいちゃんと違って、情感を綴ってあっておもしろい。
「先日遣った米一俵のお礼といって誰々さんがイモ三つ持ってきた。なんとも、なんとも、いいようがない」
「心の不調は身体の不調につながる。命が細る心地」
「ひとりで歩くのもいいが、隣に誰がいればなおよしと思う。でもやはりひとりが気楽か。などと思いもって歩くのが楽しい」
 わたしがお世話をしていたおばあちゃんと重なるようで重ならないようで、とても不思議な気持になった。日記を盗み読んだりして空の向こうで怒っているやもしれないが、死んだ人のことは知らないわ。
 これを読んでいる方の中にも、ブログをされている方、多くいらっしゃると思うのだが(人のブログ読むの好きなので是非知らせてください☆shioshioring@gmail.com)、日記ごときでも書くのは手間が要ると思いませんか。わたしの場合、目標は、日記30分、カタカナは着想・調査まで含めて一時間半、合わせて二時間以内、としているのだが、現実には越えてしまうことも多い。とはいえコーナーを分けたことで、以前よりも効率はあがったと思う。両方合わせて一時間以内で仕上げられれば、もっと気軽に更新できるだろうに、まあそのためにはたくさん書くしかないのだろう。頑張ろう(趣味に関してはえらく真面目だ)。
 今日はシューベルトのソナタの譜も買った。先日のだめを観ていて、気に入ったため。母は「千の風になって」のフルート譜を買っていた。伴奏をしてくれ、というのでしてあげた。死んっでなんかいませ〜ん、の死んっでなんか、の部分が何度教えても吹けなかった。彼女のリズム感の問題が大きいけれど、唐突なんだよねメロディー自体も。

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カタカナ: スローガン slogan

 あなたの座右の銘はなんですか、とこれまでに7回は聞かれたことがあるが、はてさてなんと答えたのだったか、改めて今考えてみると、そうですなあ、あえてあげれば「自由」と「正直」だろうか。しかしまあこれらの言葉をひっさげて、それに添う生き方をしています、というわけではなく、自分の傾向を総じていえばそんな感じ、というアバウトな話であって、要は座右の銘や標語を掲げる生き方をしていないということ。
 個人の場合はそれで構わない。それこそどんな生き方をしようと自由だからだ。しかしこれが何らかの集団になるとそういうわけにはいかない。「打倒!○○」と掲げて心を一つにする必要もあるだろうし、「我々は省エネを優先します」と謳って他団体との差別化をはかる必要もあるだろう。
 それは言語の成り立ちをみても明らかで、例えば、スローガン(slogan)という言葉はもともと「スコットランド高地の住民のときの声」という意味だ。ゲール語のsluagh-ghairm(軍隊の叫び)に由来している。モットー(motto)はイタリア語のmotto(言葉)が語源、もとは西洋の封建貴族が楯や紋章に記した言葉をさしていた。
 スローガンもモットーも、日本語でいえば、標語や主義・主張だが、スローガンのほうが政治的・宣伝的意味合いが強い。関係する言葉にキャンペーン(campaign)というのがある。この語源はラテン語のcampus(野原)である。大学のキャンパスや野外キャンプも同語源。これが、野原→戦場→戦い→政治的運動、と変化して、現在の意味を持つようになった。英語だと「軍事行動」という意もある。
 いっぽうモットーに近いのは、マントラ(mantra)だろうか。呪文のように心の内で繰り返して唱える言葉のことだ。「絶対できる絶対できる」とか「落ちろ落ちろ落ちろ」とか。誰にでも唱えた経験があるだろう。日本語だと「真言」と訳す。空海の広めた真言宗の真言だ。語源はサンスクリット語の「演説」。

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2008年01月21日

日記: 伊丹さんと遺品

 昨晩はホテルに10時頃戻って来て、11時には寝た。8時間はぐっすり寝たので爽快な目覚め。二日酔いの最後の薄皮もきれいに剥けた。朝一で、祖母宅近くにオープンした伊丹十三記念館を見学しに行く。
 こんな田舎にこんなに洒落た建物を立ててばつが悪いというか、いかにも突拍子ない感じで、でも伊丹さんは松山ゆかりの人だから記念館は是非松山にということだったのだろう。幼少の頃の手記や自筆原稿、絵画や絵コンテなど、空いていたこともあって展示品をじっくり見て回った。徹頭徹尾、洒脱な人。女として愛でられたい欲をそそる男。何をやらせてもやってのける才能があって、何をやっても楽しむ才能があって、それなのにどうして最後まで生きることを楽しめなかったのだろう。隣り合わせの光と闇。入り口に飾ってあるこの写真をみて、いっそうやるせない気持になった。
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 午後は祖母の遺品整理。すでに使える家具や食器などは運び出していて、ものは減っているはずなのに、今日こしらえたゴミ袋は100袋、しかし依然として片付きそうにない。どんだけ……。布団なんて50組くらいあって、ほんと、おばあちゃんは不思議ちゃんだ。またこの家が広いのなんの(300平米くらいある)、納屋まであって、どうやらもう一度来ることになりそうな気配だった。人が死ねば、残された者が遺品整理をするわけだが、持ち主を失ったものをいじっていると言い得ぬ気持になる。死ぬってあっけないなと思う。おばあちゃんは一体どこへ行ってしまったんだろう。
 夜は父と二人、焼き鳥屋で飲む。カウンターしかない飲み屋は久々。焼酎をロックで3杯飲んだ。疲れているのか、酔いが早かった。

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カタカナ: ロマンス romance

 昨今ロマンスというと色恋沙汰をさすが、これはもともと「ロマンス語で書かれた文学」という意味で、つまりローマ帝国時代にラテン語で書かれた古典に対し、中世になって民衆の言葉(ロマンス諸語)で綴られた大衆文学ということ(cf.07.7.26)。森鴎外に対する赤川次郎みたいなことである。内容は伝説を扱ったファンタジイだったり、中世騎士の冒険譚や恋愛ものが多かったようで、想像するにFFやドラクエ的世界だったのではないだろうか。別名、伝奇小説ともいわれる。もちろんロマン(roman)という言葉もこの仲間で、近代にロマンス語で書かれた伝奇的要素の強い小説をそう呼んだ。
 対してノベル(novel)というのは、いわゆる小説のこと。長編を指す場合が多い。英語では、ノベルより短いものはstoryと呼ばれる。ノベルの語源はnovella(新しいこと)。形容詞のnovel(新しい、珍しい)や限定品なんかを示すnoveltyも同語源である。storyの語源はhistory。
 芸人さんが演じるコント(conte)も、実は物語を示す言葉である。フランス語で「短編よりさらに短い、軽妙で機知に富んだ話」という意味だ。だからショートコント(和製カタカナ語)は「短い寸劇」となって頭痛が痛むわけだが、あのスタイルはウッチャンナンチャンが考案したとものの本に書いてあった。すごい。ちなみにネタという言葉はラテン語とかではなくて、「種」を逆さに読んだ隠語である。

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2008年01月19日

日記: みんな違ってみんないい

 明日祖母納骨のため、松山に前乗りする 。羽田ー松山の飛行機が初のウィングレット仕様(Boeing737-800)でうきうき。ウィングレット(winglet)とは主翼のさきっぽにつけられた翼のことで、簡単にいうと無駄な空気抵抗を減らすためのもの。これがあるとガソリン代が4%減になるとかで、昨今装備する飛行機も増えてきている。わたしは飛行機に乗るのは大嫌いだけれど、飛行機の格好はとても好き。飛ぶなんてすごいといまだに感心してしまう。今日は道後温泉に入って、あとは酒を飲むだけの日。焼酎を少々飲み過ぎる。
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 このところいわゆる共同浴場を利用する機会が多くて、その都度感慨をあらたにするのだけど、女体って本当に素敵だ。わたしの身体といえば胸という胸もなく尻という尻もなく、ヒラメかカレイかマナイタかというところなのだが、風呂場の女たちは胸も腹も気持よく膨らんで、よく胸だけ鞠のように丸くて身体は細いのがいいなんていう男がいるけれど、それは違います、女体とはそこかしこが丸くて肉厚なほうが見映えがするのである(その証拠に古今東西の画家の描く女は肥えている)。それでも、年老いて四角くなった身体も、痩せて骨の浮いた身体も、それはそれでエロいことがわかった。つまり、みんな違ってみんないい。女の身体の好みをあれこれいううちは、男もまだまだ未熟であることよ。

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カタカナ: ミント mint

 禁煙して半年が経った。14年間吸い続けたことを考えると、まだまだ禁煙初心者ではあるが、吸いたいと感じることは一切なくなった。禁煙は難しいと聞くが、わたしの場合ある日ふっと喫煙熱が冷めた感じで、吸っている間は愉しかったけれど、未練はほとんどなかった。この感じ、何かと思えば、恋とそっくり。人であれものであれ、わたしという人間はそういう執着の仕方しかできないのだなと万感こもごも到り候。
 それで話はミントなのだが、わたしはもっぱらハッカ煙草派(マルボロメンソールライト)、あの清涼感を味わいたくて喫煙していたふしがあるくらい、要はミントが好きなのだった。
 ミント(mint)とはラテン語mentha(ハッカ)に由来する言葉で、さらに遡るとギリシャ語のミンターに辿り着く。これはギリシャ神話に登場する美しいニンフの名前で、女神に美貌を妬まれて草に変えられてしまったいう。今ではその爽やかな香りで居場所を知らせているのだそうだ。
 ミントの種類はペパーミント(peppermint)とスペアミント(spearmint)に大別される。ペパーミントは清涼感が強く、スペアミントは甘みが強い。だからガムを買う時、より強い刺激を求めるならペパーミント味を選べばいい。ミントには清涼感だけでなく集中力を高めたり眠気防止、二日酔いを軽減する効果もあり、フリスクのモットー、sharpens you up!は一応理にかなっている。また、やせた土地でも育つ繁殖力のある植物なので、世界中で栽培され、古くから料理や薬に用いられている。
 ちなみに英語でmintというと「造幣する」という意味もある。これはmoneta(貨幣)というラテン語から派生した別の言葉。

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2008年01月17日

日記: 縁起ウインナー

 最近マーケットへ行くと受験生向けの菓子コーナーがあって、わたしも暇なものだから手にとって眺めてみるのだけど、「うカール」とか「勝ちの種」とか「Toppa」とか、お菓子屋もなかなか頑張っている模様である。中でも「うカール」がよい。語感にカタルシスを感じる。思いついた人はうきうきしたに違いない。よっしゃ、と対抗心を燃やして思いついたのが、エントリーマアム。……いまいちである。うカレーパン、とか、うカレーうどん、も二番煎じでよろしくない。ではストレートに「おいしい牛乳」ならぬ「うかる牛乳」とか「勝ちミルク」というのはどうだろう。案外売れるかもしれない。と調子づいて覗いた精肉コーナー。ぴんときた。縁起ウインナー「アルト・ハイレルン」。どうだ。
 という地味な日常を送っているわたしだが、今日は所用で銀座へ出かけた。新しいビルが次々とオープンして銀座のセレブ度は急降下、昨今はふんわりと良い香りのするオネイサンをあまりみかけなくなった。残念である。そういう感想を持つのはわたしだけではないようで、菓子屋の会計を待っている間、後ろの女子二人が、最近の銀座はイモだ、と嘆いていた。なんとはなしに聞いていると、どうやら彼女たちはホステスさんのようで、「頭はいいが気の強い」同僚の悪口を延々と喋っていた。あいつ絶対アイジンがいる、だってシフトをあまり入れてないのに羽振りがいい、客の前で態度変わり過ぎ、でも根性あるよねあいつ、などなど。ふむ。「頭はいいが気の強い」人と「頭は悪いが気の強い」人と、どちらが始末に悪いだろうかとしばし考える。あるいは頭の良し悪しではなく「気の強さ」がネックなのかもしれない。マネケンというベルギーワッフル屋でのこと(なかなか美味しかった)。

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カタカナ: バーゲン bargain

 バーゲンの季節である。今年は年末のスキー旅行で散財してしまったので自粛しようと思っていたものの、SALEの血文字(に見える)を前にすると心がめらめら燃えてしまって、BALENCIAGAのセーターなんぞを買ってしまった。おそろしや、おそろしや。
 ところで、bargainとは英語で「契約、取引の交渉をする」という意味である。語源は古仏語のbargaignier(値切る)、古英語のborgian(借りる)から来ているようだ。日本語でいうバーゲンは「バーゲンセール」の略で、最近では「バーゲン」よりも「セール」のほうを好んで使う店が多いように見受けられる。セール(sale)の語源は古英語のsala、「売る、与える」という意で、英語のsell(売る)も同語源である。時々、saldi(サルディ)という文字も見かけるが、これはセールを示すイタリア語である。フランス語だとsolde(ソルド)になる。
 日本のバーゲンは冬と夏の年二回、あとは閉店セールだの店じまいセールだの在庫一掃セールだの、その実施に関しては各店に一任されているが、ヨーロッパでは国によって定められた時期以外に安売りをしてはいけないと聞いたことがある。そのためセール期間には老若男女が行列して、大変な騒ぎになるのだそうだ。時期は一月、二月とおおむね日本と同じだが、たとえばアメリカなどは感謝祭後から、イギリスはクリスマス後から、とそれぞれのしきたりがある。日本のセール期間は一月いっぱい、終わりのほうになると畳み掛けるように値引いたりするから油断ならない。わたしの戦いはまだまだ続くのだった……。

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2008年01月14日

日記: バブル

 去年の秋にハードディスクレコーダを買って、あまりにも便利なのが嬉しくて、テレビをたくさん観るようになった。年末年始も録り溜め鑑賞に追われて過ぎてしまった感じだ(のだめとすべらない話と格闘技と……)。これまでの人生を振り返ると、頭が悪くなるくらいテレビを観る時期が7年に一度くらいあって、今はそれなのかもしれない。時間がもったいないので早く終わってほしい。今日は『バブルへGO!』という邦画まで観てしまった。広末涼子が1990年にタイムスリップする話である。生々しく覚えているけれど断絶感のある昔、という時代設定が絶妙だし、阿部ちゃんも好きだし、なかなかよかったなり。
 1990年といえばわたしは高一で、学校の勉強に全然ついていけず不貞腐れて、髪を脱色したりディスコに行ったり酒を飲んだり、色々と可愛らしかった時期である。洋楽はダンスミュージック全盛期、ボビー・ブラウンにジャネット・ジャクソン、ディスコに行けば必ずヴォーギングタイムがあって、わたしはそういうのと並行してニール・ヤングやツェッペリンをしみじみ聞いていた。中原中也も太宰治もその時期に読んだ。オールナイトニッポンを聴きながら三次方程式を解き、セックスってどんなだろうと夢想していた。闇鍋のような時代である。
 カラオケはボックスではなくパブが主流で、備え付けの紙切れに歌いたい曲を書いて提出すると名前が呼ばれ、知らない客もいる中ステージに立って歌う仕組みだった。私が生まれて初めて歌ったカラオケは、中村あゆみの『翼の折れたエンジェル』。最初から最後までファルセットで歌い上げた記憶がある(それしか歌唱法を知らなかった)。不憫に思ったのか、お店の黒服のお兄さんがタンバリンを叩きながら「もっとお腹から、大きな声を出して!」と励まし続けてくれた。あのお兄さん、今、何をしてるだろうか。
 わたしの父は公務員だったので、羽振りがよかった覚えもないけれど、あの時代の雰囲気を思い返すと、やはり社会全体のテンションが高かった気がする。眉毛を太く描いて、肩パッドを入れて、髪を膨らし、大きなゴールドのイヤリングをぶら下げて、おそらく国民が共同幻想を抱くことのできる最後の時代だったのだ。
 ところで、風邪薬CONTACのMr.CONTACと民主党の小沢代表はそっくりだと思うのだが、いかがか。
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 札幌のカラスたちは帰る山がないのか、毎晩こうやって繁華街の街路樹をねぐらにしているようなのです。ナイト・シャラマンの映画みたい。

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2008年01月10日

日記: 句会と血液型

 バンバンジーの話ばかりして申し訳ないが、足りないのはマヨネーズだと思いついた。練りごま(芝麻醤)と豆板醤と紹興酒と酢と醤油と砂糖とごま油とネギとショウガとマヨネーズ。どうせならピーナッツのみじん切りも入れてしまえ。これまでの経験則でいうと、カレーのルーと一緒で、端から端まで入れていけばそれなりの味になるものだ。来週あたりにチャレンジしてみよう。
 今日は初めての句会だった。正直あまりぴんとこなかったが、何にせよ第一印象で判断するのは好ましくないので、しばらく続けてみようと思う。少し気になったことがあって、フィクションの句を詠んだらいけないのか、と先生に質問したら、基本的には構わないけれど、金持ちが貧乏の句を詠んだり子のない人が母の句を詠んだりするのはいけない、という返答だった。初回からしつこいのもいけないと思って留めておいたけれど、どうしていけないんだろう。性や年齢を偽った句とかSFの句があってもいいと思うのだが、俳句は作者あっての作品ということなんだろうか。あまりに短かくて情報量が少ないから、作者の実背景なくして作品が独り立ちしにくいのかもしれない。にしても、五七五と季語の縛りがあるのはいいとして、そういうのはどうも窮屈だなあと思った次第。
 その後の飲み会で、血液型を聞かれた。これはわたしがいつも驚くことのひとつだが、世の人は本当に血液型論議に熱心である。A型だと答えると、B型の人に振り回される人生でしょう、と言われた。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。つまり、よくわからない。正直にそう答えると、旦那さんは何型ですか、と聞き返された。知らない、と答えると(第一当人が知らないのだ)、相手が目玉の転げそうな勢いで、お見合い結婚なのか、夫婦関係は大丈夫なのか、輸血の時のことは考えているのか、と畳み掛けるので笑ってしまった。お見合いだと血液型を知らないのか。知らなかった。しまいにはどうして調べないのか、どうして知ろうとしないのか、と詰め寄られたので、仕方なく「興味がないから」と答えたら、ようやく話が終わった。やれやれ。帰ってその話をすると、家人は社会のルールがどうの大人の態度がどうのとごちゃごちゃ言っていた。B型の可能性はなし、と心で唱える。
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小春の午後に、ボタンが一つ、ドラ立つ際に、落ちていた

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カタカナ: ババロア bavarois

 今回は洋菓子、ふるふるした洋菓子の話である。ババロアにゼリーにムース、コンビニの冷菓子コーナー上段の類いといえばおわかりいただけるだろうか。大雑把にいうと、型に液を流し入れてゼラチン(cf.07.5.3のカタカナ)で固める菓子、ということになるが、液の種類によって名称が異なってくる。
 もっとも簡単なのはゼリー(jelly)である。フルーツゼリーならば、ゼラチンを溶いて果汁を固めるだけでよい。自作菓子、初級編である。牛のコンソメゼリー寄せのように料理として出されることもある。語源は「凍らせたもの」という意のラテン語で、仏語風にいうとジュレ。
 ムース(mousse)はどうだろう。これは「生クリーム+卵白+泡立て」たものを固めて作る。ふわっとした舌触りが特徴で、こちらも菓子だけではなく、すりつぶした魚などを加えて料理としても提供される。語源は「苔(moss)」。
 次にババロアだが、これは「生クリーム+卵+加熱」したものを固めて作る。ババロアとは「バイエルンの」という仏語で、その昔ドイツのバイエルン公国がフランス人パティシエに作らせたことから、この名がついたと言われる。ふるふる系菓子の中ではもっとも濃厚で、カロリーが高い。
 似た菓子にブラン・マンジェ(blanc manger)というのがあるが、こちらは「生クリーム+牛乳+加熱」したものを固めて、アーモンドエッセンスを加えるのが特徴。字義は「白い食べ物」。パンナ・コッタ(panna cotta)も同系列の菓子である。これはイタリア語で「加熱した生クリーム」という意味。製法はその名の通り、フルーツソースなどをかけて頂く。
 このババロアの液をゼラチンで固めずに、焼いたり蒸したりしたものがプリンである。プリンとはプディング(pudding)が訛った言い方(外来語を輸入する時、目ではなく耳を優先するとこういうことになる)。プディングとはもともと小麦粉やらラードやらフルーツやら、色んなものを混ぜて焼いたものを指す言葉で、私たちが普段食べるカスタード・プディング(custard pudding)はあくまでその一種に過ぎない。

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2008年01月08日

日記: うすぼんやり

 練りごまを買ってきて棒棒鶏を作ってみたが、ソースの味が不安定でいまひとつだった。何だろう、何が足りないんだろう。改善策を得られぬまま次回へ持ち越し。なんでもそうだが、何を直せばいいのかわからないのが一番困る。箸なめて寒夜に溜息バンバンジー。そういえば初めての句会が間近に迫っている。五句詠んでいく約束なのだが、まだひとつもできていない。
 『善き人のためのソナタ』という映画を観る。江頭2:50さんも絶賛していたが、本当にいい映画だった。ダイナミックな筋書きと繊細な心情を両立できる映画はそう多くはない。ラストもよくて、ほろっとしてしまった。これが今年初の映画。去年は数えてみたら45本の映画を観ていた。一週間に一本で70本、今年はそれくらいは観たいものであるが、年のせいだか酒のせいだか、途中で寝てしまうことが多くていけない。冬は特にこたつがいけない。家具というかもはや寝具、あの睡魔にはちょっと太刀打ちできないむにゃ。今日の日記がうすぼんやりしているのも、これをこたつで書いてるせいむにゃ。
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『大人の科学』付録のテルミン。形状はキュートだが、演奏は極めて困難。

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カタカナ: ノズル nozzle

 整然とした家で新年を迎えるのは確かにいいものだけど、能率を考えると、年末は決して大掃除にふさわしい時期ではないと思う。第一、寒すぎる。こう寒くてはなかなか腰も上がらないし、始めたら始めたで着ぶくれて動きが鈍い。水も冷たい。極力触りたくないから作業におざなりになるし、油汚れの浮きが悪く、余計にこすらなくてはいけない。海外の大掃除事情を調べてみると、大掃除はするけれど時期は決まっていないと答える国が多く、だよねえと思った。日本だとゴールデンウィークあたりが最高の掃除日和なのではないか。今年はそうしてみようかしらん。とかいって、いざ五月になったら、しない理由を並べ立てて年末に持ち越すことになるのだろうが。
 ところで。掃除関連の言葉には語源不明なものがわりと多い。例えば、ノズル。掃除機のさきっぽのあれだが、これはnozzleといって、nose(鼻)から派生した言葉である。掃除機の鼻、というわけだ。ではサッシはどうだろう。アルミサッシ、断熱サッシ、樹脂サッシ、窓枠をさす言葉だが、表記はsash、仏語の枠(chassis)に由来している。バケツは英語のbucketが訛ったもの、ブラシもbrushが訛ったもの、塩素系漂白剤のハイター(heiter)はドイツ語で「晴れた、済んだ」を意味している。
 ドイツと言えば、ドイツ製の掃除用具には優れものが多い。掃除好きに加え合理性を追求するのが好きな国民なんだろう、東急ハンズへ行くと、ドイツ生まれのほうきやらブラシやらクロスがたくさん売られている。なんといっても代表格は激落ちスポンジシリーズ。最初に使った時は本当に感動した。茶渋だって水垢だってお茶の子さいさい(久しぶりに使ったな……)、液剤要らずでエコ偏差値も高い。ちなみにスポンジ(sponge)とはギリシャ語で「海綿」のこと。

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2008年01月05日

日記: 堕正月

 その昔は神経が過敏なたちで、公共の乗り物で居眠りする人を見かけると、私もあんなふうに鷹揚に構えてのんきに生きたいものだ、と羨望やら嫉妬やらを感じたものだけど、最近の私は車にバスに電車に飛行機、乗ったはなからすうすうぴいぴい寝息をたてて、本当にしまりのないことで嫌になる。危機管理能力がナッシング、世が世なら場所が場所ならとうに死んでいたことだろう。とはいえ、乗り物で寝るのは堪えられない心地よさがある。酒を飲んでこたつでうたた寝、と同じくらいハイレベルな快楽だと思う。まあちょっと失礼して、というお気楽感がよいのだな。でもうとうとするうちに本格的に眠たくなってきて、片付けも途中だがまあいいか……お風呂?いいんじゃないの一日くらい入んなくても……電気?あとで自分で消すから大丈夫……なんつってふと気付けば時刻は丑三つ時、こうこうと光る灯の元ぱちりと目覚める間の悪さ。何の話かといえば、そういう正月だったという話。DSC00693.JPG
 この数日は好天に恵まれ、自宅周辺をあちこち散策してこまごまと買物。文房具市で情報分類グッズ、ドンキホーテで真っ赤な座椅子、百貨店でシャツとセーター、パン・ド・ミ、琥珀エビス、練りごま、いちごポッキー、ベビ−スターご当地ラーメンセット。saleという文字を見ると、アドレナリンがざぶんと押し寄せる。乗ってけ、乗ってけ。うひょひょ。
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近所の横溝屋敷ていう家。

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カタカナ: スキー ski

 日本のスキー人口のピークは90年代前半、当時は1800万人近くいたといわれている。しかしその後は減少の途を辿るいっぽうで、現在は500万人にも満たないとか、確かに周囲でスキーに行ったという話もとんと耳にしなくなったし、今回私が行ったのも実に13年ぶりのことだ。おそらく金と手間がかかるのが原因だろう。道具を揃えて遠方の雪山に出かけなくても、近所でフットサルに興じるほうが格段に安いし、何しろらくちんだ。それでも久しぶりに滑ってみて思うのは、やはりスキーは魅力的なスポーツ、白く輝く斜面を風を切って滑る感じはちょっとない。
 スキー(ski)とは古いノルウェー語で「木板」という意味。積雪量の多いスカンジナビア半島では紀元前から脚に板を履いて滑っていたと言われるが、競技や娯楽として成立したのは20Cに入ってからのこと。現在のスキーはアルプス地方に普及したアルペン(Alpen)とスカンジナビア半島に普及したノルディック(Nordic)に大別される。冬季五輪を想像してもらうといいが、滑降や大回転など斜面を高速で滑るのがアルペン、いっぽう雪原を滑るクロスカントリーやジャンプはノルディックに当たる。私たちが通常楽しむのはアルペンスキーのほうで、スキー板に爪先と踵の両方が固定されているのが特徴。今回も何人か見かけたが、ノルディックの人たちは踵が外れるスキー板を履いて、片膝を追ってターンをしている(テレマークターン)。スピードではなく地形を楽しむ山岳スキーなんかの場合には、このほうが自在に動けると聞いたことがある。
 スキーでもっとも重要なのはターンである。勇気さえあれば、誰だって滑り降りることはできる。でも10度少々の傾斜でも大人の体重なら時速30kmはゆうに出るし、これは恐怖を感じるには充分すぎる速度、ひいては腰がひけてさらに速度はアップ、そのまま木立に突進して骨折、なんてことにならないためにもきちんとターンをして、方向転換とスピード制御することが大事なのである。
 まず初めに教わるのはボーゲンである。正式名称はプルークボーゲン(独:pflug bogen)、プルークは「鋤」(いわゆるハの字)、ボーゲンは「湾曲」のことだ。脚をハの字に開くことでスピードを殺し、体重を左右に移動しながらターンしていく。滑る格好はあまり見映えはしないものの、これさえできればどこでも滑れるという最強のターンである。次にパラレル(parallel)、字義通り左右のスキー板を並行にしたままターンする技術で、これができるかどうかで初級と中級が分かれる。難しいのはいくらボーゲンが上達してもパラレルにはならない、つまり両者はまったく別の技術だという点だろうか。強いていえば、面で滑るのがボーゲン、線で滑るのがパラレル。四輪車と二輪車のような違いがあるように感じられる。そのパラレルターンを早いリズムで切り替えていくのがウェーデルン(wedeln)、ドイツ語で「(犬が)尾を振る」という意味。

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2008年01月01日

日記: 7th

 年末は北海道でスキーをして、大晦日、年の変わる3分前に帰宅、なんてことをしていた都合、ぬるっと年を踏み越えてしまったけれど、ひとつ言えるのは、2007は決して良い年ではなかった。何も成さなかった。努力できなかった。ツキもなかった。そのくせ酒は飲んだ。入院をした。祖母も死んだ。でもまあそんな年もあるだろうよと空を見上げる余裕はあった。今年私は34歳、はてさて、人生をどう折り返そうかしらん。
 ところで、初めての北海道は魚介が魚介で魚介だった。確かに美味かった。けれどその代償ともいうべきあの寒さ、顔が痛くって泣けてきちゃって。人々も二重窓の向こうから出てくる気配もなく、街は閑散としていて、札幌から電車で数分の場所なのにこんな具合。ルルル。
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 この駅に住まう義兄2号夫婦は私たちを車で送り迎えて、美味い酒をしこたま飲ませてくれたのは素敵だったけれど、翌日起きてみれば強かな二日酔い、私ひとりだけスキー板を履くことも叶わず、ゲレンデの食堂で伸びたまま。外はこんなに開放的だというものを。阿呆、としかいいようがない。
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 復調した翌日は腹いせに、家人を騙して大回転コースへ連れていく。傾斜角30度、ボーゲンもまともにできない初心者なのに、彼は本当によく滑り降りた(転げ落ちた)と思う。今度騙したら殺す、みたいなことを言ってて可笑しかったけれど、そのおかげかどうか、帰る頃にはすっかり上達していて、またスキーしたいねという話をした。もっと軽装だったら、頻繁にやりたいんだけどな。いかんせん。
 義兄によれば「こんなもんじゃない」のだそうだが、北海道の雪は本当にさらさらしていて、こきゅっと小麦粉を踏んだような音が鳴る。音を楽しむ。その脇を現地の子供たちがわんさか、先生のあとをカルガモのようにくっついて滑っていて、彼らのほっぺの赤いこと可愛らしいこと、とても幸福な光景だった。

 さて。この日記も今年で7年目、昨年は新たなにカタカナコーナーと写真を始め、しかも更新頻度を落とさないという目標を掲げていたものの、いやはやなかなか。今年はなんとか。
 どうぞ本年もよろしくお願いいたします。
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(今日義兄1号がウィーで作ってくれた。似ていますか)

投稿者 shiori : 12:28 | コメント (0) | トラックバック (0)