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2007年12月23日

日記: M-1

 髪をばっさり切ったり、百貨店を巡り歩いたり、一張羅を着てフカヒレを食べたり、今週もせわしなく去っていきました。けれど私は始終うわのそらで、それは「身内が死んだ」せいなのか、案件が暗礁に乗り上げているせいなのか、はたまたホルモンのせいなのか、それを解きほぐす元気もないから、しなっと、くたっと、ぼそっとしていて、そのうち体調を崩すのではないかしら、いっそのこと崩してしまってリセットするのもいいかしら、そんな私を尻目に家人は日常の堆積を手際よく片付けていて、その背中がまぶしくって「あーあ」と思う。
 M-1を観ていて、この中から優勝者を決めるのもなんだなと思っていたら、敗者復活枠で出て来たサンドウィッチマンというコンビがめっぽうおもしろくて、そのまま優勝してしまった。去年のチュートリアルもそうだったけれど、勝つべくして勝つというのか、優勝者のステージは新しい風が吹く。サンドウィッチマンは苦節9年の無名のコンビというのだから、ますます清々しくて、万歳だった。無から有を作り上げるのは本当にすごいこと。しかも人を笑わせるなんて。

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2007年12月16日

日記: 参っちゃって

 日曜恒例の作り置き大会。青椒肉絲、キノコとベーコンの生クリーム炒め、大根と鶏肉の煮物、蓮根ハンバーグ、サラダ。冷蔵庫の中には大小様々のタッパーがうずたかく積み上がっている。安心する。夕食はそれらに加えて、脇から頂いたカニのちらし寿司も。
 トヨタカップだけれど、ミランは本当に強かった。今年のCL終盤も他を寄せ付けない強さだったが、あれからさらにパワーアップした感を受けた。カカーからインザギの連係なんて早すぎて上手すぎて、超絶ピンボールか何かを観ているようだった。南米に勝ってほしいのはやまやまだが、今回はちょっと仕方なかった。浦和もずいぶん健闘した。世界3位!とアナウンサーが叫ぶのは本当にどうかと思うが(実際は103位くらいだ)、頼もしいというか、思いに誠実な感じが好ましかった。WE ARE REDSコールには毎度のことながら参ってしまうのだけれど。You are not REDS indeed.
 そう、帰属意識といえば、カカーのシャツに「I belong to Jesus」と銘記してあったのにも参ってしまった。そんなばつの悪いもん、見せるなやい。だいたいそれとこれとは別の話やろ。と私らは思うのだが、まあカカーにとっては同じ話なんだろう、いやはや世界は広いのである。
 話はずれるが、一流スポーツ選手の好きな音楽や本を聞いて驚くことが少なからずある。試合前にはこれを聴いて気持を盛り上げました、ってそんなもん聴いてよく盛り上がれるな、というか、ぶっちゃけ、趣味が悪いのである。しかしまあ考えてみれば、趣味が悪いというのも偉そうな話で、じゃああんたの趣味はええんかいとなじられればうなだれるしかないのだが、それでも私は趣味よくありたいと願っているし、そのための労も惜しまない。ということはつまり、彼らはそんな暇もないくらい、練習が大変なんだろうなと思って、いちおう腑に落ちる。それにしてもEXILEって。ぶつぶつ。

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2007年12月12日

日記: こころ

 気付けばダウンジャケットを着込む季節になっていて、朝晩の冷えること冷えること、壁の薄い家はいけない。外気と室温が同じなんだもの。電灯に群がる虫のように、オイルヒータにへばりついている。それでも十二月は素敵。起きたはなから気持がうきうきしている。今日はせっせとコンピュータまわりの整理をした。一緒に働いていた旧友の笑うには、私は意外にも机が汚いらしい。しおりんの使ったあとの机、男みたい、と。知らなかった。確かにゴミをこまめに捨てないのはある。何かの上で何かを書いたりすることも多いし、書きなぐったメモもそこかしこに散乱している。それでも私なりに秩序は保たれているのだが、そういえば家人にも「貧乏揺すりはいけないよ」と言い含められたし、職場ではもう少し人目を意識したほうがいいのだろう。うむ。
 ふと思い立って、夏目漱石の『こころ』を読んだ。年表を見ると執筆されたのはざっと100年前、よく「まったく古さを感じさせない」という褒め言葉を聞くけれど、こちらとしては古さを感じたくて古典を読むのであって、『こころ』は予想通りしっかりと古くて、その古いところも実は古くないところも双方おもしろかった。ゆえに秀作なのだと思う。「こころ」なんてタイトルを恥ずかしげもなくつけるだけのことはある。
 高校の教科書に載っていたので読まれた方も多いと思うが、先生とKは同じ女の子を好きで、先生がKを出し抜いて彼女をものにするんだけど、Kは自殺してしまって、なんだかなあと思って今日まで生きてきたけど、明治天皇も死んだことだし、私はゆっても明治の人間。……死にますわ。砕いて言うと、そういう話である。
 まず、最近の人は「私は昭和の人間」とはあまり言わない。平成にいたってはますます言わない。時代精神を語るには昭和はあまりにも多くのことがあり過ぎたし、個の意識が強くなって、精神をひとからげに言うのがむつかしくなったのもあるだろう。だから時代に殉じて死ぬという感覚がわからない。わからないけれど、そういう時代があったというのはよくわかる。
 それもあって、小説の題材は陳腐だが(当時は斬新だったのだろう)結末はとても斬新に映る(当時は陳腐だったのかもしれない)。さしずめ昨今の小説だと、親友は死んだけど俺は生きてて、あれ以来万引きの癖が止まないだとか、女に暴力をふるってしまうだとか、でもまあ生きていますよあはは、猥雑な俺ってちょっと素敵。みたいになったりして、そう思うと、漱石は清潔だ。グールドの弾くバッハのように清潔。そういえば、グールドの愛読書は『草枕』だった。

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2007年12月09日

日記: お葬式

 炉から出てきたおばあちゃんの骨は、はっとするほど少なかった。骨壺はすかすかだった。最後はもう気だけで生きていたんだろう。持ち帰った遺影と骨壺のまわりには白い花が咲き誇っていて、がらんとした部屋には甘い匂いが満ちていた。その横で話をしながら、お酒を飲んだ。
 祖母が私の家にやって来たのは4年半前、2003年の夏のことだ。今となっては信じられない感じだが、当時の祖母は自分の脚ですたすた歩いて、電車に乗って三越へ買物に出かけたりしていた。それでも祖母は新たな家族を得て安心したのだろう、心身は少しずつだけれど確実に衰えていった。植物の世話ができなくなり、洗濯が干せなくなり、着替えができなり、入浴ができなくなり、という具合。とはいえ介助する者があれば何でもこなせたので、脳梗塞で倒れる2006年の夏までの三年間は色んな所へ出かけたし、色んなものを食べた。そして色んな話をした。このブログにも再三書いて来たけれど、夢か現か判然としないような珍言珍動も多く、今思い出しても口元がにやけてしまうほどだ。あの頃の祖母は、母の胸に抱かれて眠る幼児のように、穏やかで幸福そうだった。そんな祖母を見ていて私たち家族も嬉しかったし、その三年間があったからこそ、その後の本格的な介護を最後までまっとうできたのだと思う。
 歩くことはおろか寝返りさえも打てず終日寝たきり、食事は流動食、排泄はすべておむつ、その時期が結局、一年半続いた計算になる。今の世は何かと便利になっているし、世話自体に要する時間はさしたるものではないのだが、「死にかけている人」が家にいるというのはなかなか精神的にきついのである。X-dayを引き伸ばしたくもあり、さっさと片をつけたくもあり、そんな思いを行き来するうちにじわじわと疲弊していく。家族関係もぎくしゃくしていく。ちょっとしんどくなってきた、と母が弱音を吐くようになったのと前後するように逝ったのは、あるいは祖母の最後の優しさだったのかもしれない。

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2007年12月08日

日記: お通夜

 朝一番で病院。心配した家人が一緒に来てくれた。過保護で恥ずかしかった。ひとりっ子という生い立ちのせいで、過保護にはちょいと敏感なのである。自分はそこらのひとりっ子と違って、ひ弱でわがままなんかじゃない!と必要以上に力んできた都合、過保護に罪悪感があっていけない。まあ四の五のいったところで、ひ弱でわがままには違いないんだけども。
 とにかく、今日は家人も一緒に診断を聞く。結果はOKとのこと。よかった。本当によかった。ようやく恐怖から解放されて心も軽やかに、現金なもので、途端に軽口を叩き始める私なのだった。
 午後からお通夜。参列者11名の家族葬である。祖母の家は黒住教という神道で、これは関東にはあまり馴染みがないが、瀬戸内海に面した山陽や四国、九州にはよく見られ、アマテラスオオミカミ(天照大神)を万物の神として崇める宗教である。お坊さんがお経をあげるかわりに、黒住教では神主さんがお祓いをあげ、お焼香するかわりに榊を手向ける、とまあ中身は仏教とさしたる違いはないように思われる。少なくとも仏教とキリスト教ほどは違わない。ただ、これまで数人の神主さんにお目にかかる機会があったけれど、皆そろいもそろって「いい」声で(というのは麒麟の「麒麟です」の声のことです)、低く艶やかな声で詠まれるお祓いを聴くのはわりといいものである。といった具合に私は始終とても平静で、祖母が大往生だからなんだろう、お通夜は淡々と過ぎていった。
 祖母は大島紬の立派な着物を着せてもらっていて、大変結構なことなんだけれど、ふと足元をみると水色のスポーツソックスを履いていて、まこと間の抜けたこと。そういえば亡くなった日も、ドライアイスをたくさんのっけてあるのになんだかぬくい、と思って布団の下に手を入れると、電気毛布がつけっぱなしなのだった。いつもどこか抜けている。家風というやつか。
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 棺にかけられた一畳ほどのこの布は、祖母が自分で編んだもの。彼女は本当に手先の器用な人だった。棺の中には薩摩芋にうどんにおしるこ、好物をたくさん入れてあげた。長い道行きの虫養いに。

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2007年12月07日

日記: 大凶

 大凶の一日。十年に一度あるかないかの凶悪ぶりであった。
 朝、昨日の術後経過を診せに行くと、医者が渋い顔をする。なんでも、また左目のフラップにしわが寄っているらしい。またですか、とうんざりした声を出すと、こういうケースは僕も初めてで、なんて言っている。手術当日は眼球とフラップがはがれやすいので、ちょっとした風や衝撃にも注意する必要がある。運動はおろか風呂も洗顔も、瞼に指一本触れてもいけない。もちろん私はその言いつけをきちんと守った。なのに。どうして。まあ思い当たるふしといえば、昨晩泣いたことか。目をぎゅっとつぶった拍子にずれることもあるというから。しわがいってしまったものは仕方ないとはいえ、昨日の処置の痛みを思い返すと、私はほとほとうんざりしてしまった。
 シールや保護フィルム(ゲーム機器や車の窓ガラスやなんかの)を想像していただきたい。首尾よく貼ったつもりがしわが寄ってしまい、もう一度剥がして貼り直す。でも一度ついたしわはなかなか伸びないし、シールと表面の間に細かいゴミが入ったりして、そういう場合は表面のゴミを綺麗にこそげてから貼り直して、普段より強めにシールを押さえつける。
 これを目でやるのだから、こちらはたまらないのである。私は何かと病気がちで様々な痛みを経験しているし、忍耐力もあるほうだと思うけれど、今回の処置の不快指数は過去最高を記録したかもしれない。擬態語で言えば、ちくちくとしくしくがかわるがわるやってくる感じだ。レーシックを受けた人のほとんどはフラップにしわなんかなくてすいすい帰っていくのに、どうして私はこんなものを二回も受けてるんだっ。だっ。と呪ううちに手術を終了、休憩室で目を休めて最後の診察を受けた。ところが。
 またしわが寄っているというのである。
 後半42分に失点。勝たねばならぬ試合なのに。
 喩えていうなら、そういう絶望感であった。ロスタイムでなかっただけ、ドーハの悲劇よりはましだったか。
 申し訳ないけどもう一度処置を受けてください、と医者は言った。どうやら目が乾きやすい体質なのだろうとのこと。体質と言われれば患者としては受け入れるしかないわけだが、だいたいこの病院は合理化かなんかしらないけれど、毎度毎度診察医と執刀医が違うため責任訴追しにくいし、寄る辺もないのでひどく不安なのである。安い病院を選んだ私が馬鹿だった。
 安い病院と高い病院の差はこういう時に出る。つまり、有事の際の対応が行き届くかそうでないか、なのだ。95%の人々は滞りなく退院していくのだし、もちろん自分もその一人のつもりなのだが、今回のように運悪く5%に当たってしまうと、こんなにヘヴィな思いを味わうことになる。それでも今回の手術は18万、丁寧な対応の病院は50万……。むつかしいんである。
 それで結局、私は三回目のしわのばし処置を受けて、ほとんど死んだつもりで耐えて、おばあちゃんが死んだ、あーそーですかそれが何か?という心持ちで、看護士さんから「三回」という方は前代未聞だと聞いて余計疲れたわ。あほ、あほ、どあほ。ほうほうのていで帰宅したあとも、三回あることは四回ある、という妄想に取り憑かれ、子羊のように震えて眠る。嫌な夢をたくさん見る。

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2007年12月06日

日記: good day,good die

 昼休みに家に電話したら、祖母が危篤で医者に今日か明日と言われたという。会社を早退して目の手術もキャンセルしてすぐ帰ろうか、と言うと、それには及ばないと母。もう今まで十分にやってくれたし、あんたはあんたのことをまっとうしてくれ、と。私はわかったと返事して、夕方、会社を出て再び連絡すると、ああ、しおりちゃん、おばあちゃん、今、死んじゃった、と母は感極まった声で言った。祖母は最期に、深く長く「ああ」と声を出したのだそうだ。管を抜いて四日目だった。存外に早かった。
 私は電話を切ると、予定通り丸ノ内線に乗って目の手術を受けに行った。このあたりの感じを説明するのはちょっと骨なのだが、すぐさま踵を返して枕元に駆けつけるか、自分の用事を済ませるか、どちらの道を進んでも正解であり同時に不正解であるようで、でももうおばあちゃんは死んでしまったのだ、その事実を前にすると、私はもうなんでもいいような気がしていたのだった。しわのばしの手術はひどく痛かった。針で眼球を刺すような痛みだった。
 おばあちゃんは白くて、ひんやりしていた。穏やかな死に顔で、小春の日だまりをたゆとうているような表情だった。ああ、おばあちゃん、とうとう死んじゃった。私の愛する人、そして私を愛してくれる人がひとり、この世からいなくなってしまった。私はもう二度とこんなふうに、静かで清らかな気持で人を愛することはないだろう。この愛情こそ、おばあちゃんが私にくれた唯一無二の宝物なのだと思った。そう、私は深い哀しみの中にあって、幸福の気配を感じていた。哀しみと不幸は決して同じではない。そんなことをぼんやりと考えていた。
 今日は一日中きりっとした冬空で、夕方には息を飲むような茜空が広がっていた。おばあちゃんはあの空に吸われるように旅立っていったんだ。

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2007年12月05日

日記: しわをのばすことに

 今勤めているのは厚生年金基金の会社なのだけど、厚生年金のコの字を知らずともこなせる仕事ばかりだし、おまけに今週からは離れ部屋業務を申し渡されたので、友人たちと3人、朝から晩までぺちゃぺちゃぼりぼり、まったく愉しい限りである。加えて時給1,700円。こんなことなら就職してみようかしらんなんて生意気を言う昨今である。今日は女の身体や恋愛について活発に議論した。今や永久脱毛は当然なのか。ふむ。
 会社帰りにレーシックの一週間検診。両目とも1.5になっていた。すごい。しかしひとつ問題があって、左目のフラップにしわができているという。このまま放置してもさしたる問題はないが、治してもいいくらいの深いしわではあるとのこと。確かにそう言われれば右目に比べると左目の視界は若干ぼやけていて、でもそれがしわによるものなのか、近視が強かったせいなのかは判然としない、つまりしわを治して視界がクリアになる保証はないけれどトライする価値はある、治してすっきりするか、このまま放置するか、患者さんに任せます、と言われた。最近なんだか選択を迫られてばかりだ。それで私は、まあせっかくなので治してください、と返事した。高いお金も払っていることだし、現段階で特に問題がないとはいえ後々何がどう災いするかわからないからだ。ならば早いほうがいいと言うので、明日、しわのばしをすることになった。
 祖母はいたって穏やかな様子。鼻の管を抜いて、異物がとれてすっきりしたのだろう。年越しちゃったらどうしよう、と冗談を言う母。そういえば来年の三月、父が還暦を迎えるので、銀座の三ツ星フレンチ「ロオジエ」に行くことになった。電話口で予算はご承知でしょうか、と念を押された。おそらく、話題なので食べに来てみたはいいが高すぎて払えない客がいるのだろう。確かに一人3万は高い。私だって食い逃げしたいくらいだ。
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 会社からの帰り道。やはりオフィスは蛍光灯かと思って見上げていると、彼氏のいない同僚Nさんが「あの窓いっこに一人いるとして、一人くらい格好いい人いますよね〜きっと」と呟いていた。

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2007年12月02日

日記: 最後の晩餐

 一週間前ぐらいから祖母が呼吸するたびに「ああ、ああ」と切ない声をあげる。おばあちゃん、苦しいの、と問うても「ああ、ああ」と繰り返すばかり、しかもその声がやたら野太く、テレビが聞えないくらい大きいのである。「ちょっとうるさいんですけど」と母が苦情を言うと、祖母はけなげに口をつぐもうとするが、虚しくぱかんと開いて再び「ああ、ああ」。「冗談よ冗談、アアでもウウでも好きなだけゆうたらええわ」と母は祖母の頭を撫でるも、あれ、なんだろうか、と不安な表情を浮かべている。その「ああ、ああ」が下顎呼吸というものだと知ったのはその数日後のことだった。「とうとう始まっちゃったわね」と一目見て医者は言った。
 別名、努力呼吸といって、心臓の機能が著しく落ちると現れる症状らしい。つまり普通に呼吸したんでは酸素が取り込めないから、全身をフル稼働して呼吸をする。でも実際にはそれだけ頑張っても必要量の酸素は得られず、足先や手先にまで血液が行き届かず壊死していく(チアノーゼ)。下顎呼吸が始まると、遠方の家族を呼び寄せるのがならわしとのことだった。
 そして私たちは二つの道を示された。このまま栄養と水分を投与し続けるか、あるいは中止するか。投与すれば祖母の身体は消化しようと頑張るが、なにぶん消化能力も落ちているので苦しい。痰や咳がたくさん出る。でも命をつなぐことはできる。「おはよう」と私に笑いかけることもできる。いっぽう、投与を中止すれば身体の負担は確実に軽減できるが、脱水のため早々にも意識は混濁して十日前後で死ぬことになる。ざっとまとめれば、そんな話だった。
 簡単に考えれば簡単なのに、むつかしく考えると本当にむつかしい問題、生きているとそんな問いを突きつけられる時がぽつぽつある。いや、あるいは、私たちはむつかしく考えたいのかもしれないなと思う。問いの重みに釣り合うくらい、深く長く考えれば、ふさわしい答えが出てくるような気がするのだ。それでも今回の場合、これはあとになって初めて言えることだけれど、答えは最初から決まっていた。私たちはその答えに馴れる時間が欲しかっただけなのだ。
 家族が皆そういう気持でいたことは本当に幸いだったと思う、じゃあ日曜までは今まで通りにしようという話になり(母が暗にカレンダ−を見て予定をチェックしていたのが可笑しかった)、今日、私は「最後の晩餐だよ」と言って祖母に栄養と水分と薬(無駄だが一応)を投与した。「お腹いっぱいになった?」と問うと、すっきりした表情の祖母、目をくりっとさせてこちらを見上げた。私は声がつまって何も言えなかった。

投稿者 shiori : 15:22 | コメント (0) | トラックバック (0)