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2007年03月31日

日記: ベートーベン

 昼、立ち寄ってくれたCさんとスープとサンドイッチを食べる。これからチャゲアスを観に行くそうだ。あくまで仕事だと言い訳していた。ヤァヤァヤァ。私はコウくんのライブに出かけ、大人たちと立ち話。売れる、という現象についていくつかのシビアな考察。串揚げをどんと買って帰る。
 三月は絶不調であった。燃え尽き症候群か。否、燃え尽きるほど精を出した記憶もない。うつ病でもないだろう。単に不貞くされているだけだと分析している。誰かに何かを強制されているわけでもないのに、すべて私の自由にして構わないのに、朝起きたはなから憂鬱とはけったくそ悪いなあ。ただそういうふうに感じることは無駄ではない。物理の作用・反作用の法則のように、人は押されたら同等の力で押し返して均衡を目指すように設計されているからだ。
 ふとベートーベンを弾きたいと思った。この数年はバッハ一辺倒できているし、そういえば最近あまりピアノに触れていなくて、そうか、ベートーベンを楽しみに生活すれば案外うまくいくかもしれないと少し希望が湧いてきた。夕暮れのベートーベン。悪くない。
 と思っていたら折しも夜に観た『バーバー』という映画のサントラはすべてベートーベンだった。それも二楽章偏重。気持はよ〜くわかるが、少々違和感あり。むしろバッハのほうが、それこそゴールドベルグがしっくりきたのではないかと思うのだが。映画本編はとても良く、これまでのコーエン兄弟の中では一番好き。色々と勉強になった。

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カタカナ: ソナタ sonata

 イタリア語で「演奏されるもの」、カンタータ(cantata)つまり歌曲に対して器楽曲というシンプルな意で使われ始めた言葉だったが、ハイドン、モーツァルト、ベートベン、いわゆる古典派の登場とともに三楽章あるいは四楽章で成り立つ曲を指すようになった。ソナチネとは小規模のソナタのこと。
 ピアノソナタ、ヴァイオリンソナタ、チェロソナタなど、各種楽器用のソナタが作曲されているが、基本的に独奏あるいはピアノとの二重奏のみをソナタと呼ぶ。オーケストラのためのソナタは交響曲(symphony)、オーケストラと独奏楽器のためのものは協奏曲(concerto)という。
 色々とルールが多いゆえに敬遠されがちなクラシックだが、そのルールがあるからこそ長大な曲も散漫にならずに済んでいるとも言える。例えばこのソナタだが、一楽章は早いテンポで、二楽章はメロディアスなゆったりとした曲、三楽章は三拍子の舞曲調、四楽章は再び急速な曲、というルールがある。今ここで詳しくは述べないけれど、各楽章内でもAメロからAメロに似たBメロにいってもう一度Aメロに戻れだとかいう細かいルールもある。おそらくもっともおさまりのよい形式だったので定着したのだろう。
 形式があったほうが聞きやすいことは確かだが、それがいいのかどうかは人によるのだろう。自由にやりたいと形式を捨てる人もいるし、形式の中で自由を模索する人もいる。どんな芸術でもそうだけれど、形式と自由のはざまで葛藤するうちに名作が生まれるのだ。
 ところで『冬のソナタ』ってなんでしょ。ソナタ『冬』なのか、冬っぽいソナタなのか、というかソナタに形容詞をつけるのはいうなれば「香ばしい前置詞」とか「春のポンびき」とかいう類いで、まあいいんですけど考えると可笑しい。

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2007年03月27日

日記: また楽しからずや

 遠方よりSさんとそのご令嬢たち、Kさん、Pさん、来宅。春色の素敵な花かごを持って来てくれた。人が家を訪ねて来てくれるのは本当に嬉しいことだ。太陽がさんさんと輝く中、ビールやシャンパンなどを飲んで互いに親しむ。いくつかの昔話といくつかの近況と。
 大人たちは子供には刺激の強い言葉を小声で話し、その脇で子供たちは本を読んだり折り紙を折ったりしている。飽きた頃に一緒にトランプをする。神経衰弱で大人は負かされる。子供がいると楽しい。家人は彼女たちから詳らかなポケモン講義を受けていた。子供や動物に好かれるたちのようで、頼もしいこと。
 両親が家に人を招いて宴会をするのが好きだったため、私は昔から大人の酒飲み話をよく聞いていた。子供はあっちへ行ってろとは言われなかったので、机の端に座って話の内容をなんとか理解しようと必死に聞いていた覚えがある。おかげで少し早熟な子供になった。ひとりっ子の宿命みたいなものなんだろう。
 彼女たちが帰ったあとは大人の倦怠と憂鬱について話し合う会になり、最終的に近所の焼鳥屋に飲みに行って午前0時に散会となった。

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カタカナ: ブイヨンとコンソメ bouillon et consomme

 ミネストローネ、ラタトゥイユ、オニオングラタンスープ、ポトフ、汁気のある西洋料理にはとにかくブイヨンさえ入れればダイジョウVである。必ず美味しい。どこにでも売っているし、値段も安い。優れアイテムである。
 しかしこれを使うとすべての料理が同じ味になるという欠点もある。続くと飽きる。だから違う会社のものを交互あるいは混合で使うのだけれど、マギーと味の素が市場を席巻していて目新しいブイヨンがなかなか見当たらない。今は成城石井で買った萬有栄養という会社のを使っているが、飽きるのも時間の問題かもしれない。
 日本ではスープの素として認識されているブイヨンだが、もともとは獣肉、野菜、香草なんかを4時間くらいことこと煮込んで灰汁を取って濾過した汁を指す(具のほうはポトフと呼ぶ)。また誤用が誤用を招くというべきか、日本ではコンソメと混同されているケースも多い。
 コンソメとはフランス語で「完成された」の意。ブイヨンにさらに手を加えて作るスープの名称である。手間がかかるため高価ではあるがフレンチレストランの顔ともいうべき料理、いかに澄んだスープに仕上げるか、いかに複雑な味をスマートにまとめあげるかが問われる。細かい野菜が入っていることもあるし、ホテルオークラで飲んだものにはナタデココ?タピオカ?みたいなのが浮いていた。美味しゅうございました。

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2007年03月24日

日記: ペルー戦

 胃腸の調子が戻ってようやく酒が飲めるようになったというのに、今度は風邪をひいてしまったようだ。喉と頭がすこぶる痛い。毎年三月は必ず寝込むことになっていて、もっともデインジャラスな月である。薬を飲んで一日じっとしている。
 サッカーとフィギュアとシンクロを観戦。高原の身体がきれていて、二点目のゴールは特に素晴らしかった。顔つきも変わったし、「ブンデスリーガでプレーしているのは偶然じゃなかったようだ」とオシムにも褒められていた。俊輔も高原も去年のW杯はひどかった。本当にひどかった。だからチャンピョンズリーグで活躍していると聞いても、じゃあどうしてあの時、と唇を噛む気持はずっと消えなかったが、きっと本人たちも鼻血が出るくらい悔しがったはずで、そう思って観るとちょっと清々しい気分になった。そして、ヒデの不在がじわじわ心にしみた。スポーツ選手の引退で自分がこれほど感傷的になろうとは。

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カタカナ: バイオリズム biorhythm

 生まれながら身体に備わっているリズムのことである。もっともわかりやすいのは睡眠と覚醒のリズム。時計も日光もない暗室に閉じ込められたとしても、人間はだいたい24時間周期で寝たり起きたりするそうだ。もっと短い周期のものだと心拍数や呼吸数、長い周期だと女性の月経周期など、環境に適応するために生物はこういうバイオリズムを持って生まれてくる。
 西洋では昔から身体だけでなく感情や知性にもこういうリズムがあると考えられてきた。身体は23日、感情は28日、知性は33日かけて高調と低調を一巡する。生まれた瞬間をゼロとすると、そこを起点に三つの異なったサインカーヴが生じて、三本の曲線は並行したり交差したりしながら流れて行く。これが世に言うバイオリズムグラフである。
 となると、線が交差するあたりは要注意日だの知性が下降気味なので忘れ物に気をつけろだのと占いめいたことを言い出すのは古今東西の常なのであって、ヒノエウマがいけないだとかいう東洋の十干十二支と似たようなものである。
 似てるといえば興味深い話があった。還暦というのはこの干支の組み合わせが一巡する歳のことで「生まれ変わる」とされているため産着と同じ赤い服を着て祝う。いっぽうバイオリズムが一巡するのは(再び三本の曲線がゼロで交わるのは)23と28と33の最小公倍数、つまり21252日後=58.2年後となり、還暦の60年とほぼ同じなのである。人生は60年、これが自然の摂理なのだなあと感じ入る。すでに二周目も半ばを過ぎた祖母の「死にそこねた……」といううめき声が今にも聞こえそうである。

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2007年03月20日

日記: 未確認飛行物体

 友人が先日UFOを目撃してからどうも調子が悪い、といって電話をかけてきた。その電話と前後するように、このほどフランス政府がこれまでに寄せられたUFO目撃情報をネット公開したというニュースを聞いて、何やら地球近辺も物騒になったというか、できれば私は見ずに済ませたいと願っているこの頃である。
 一回見てみたいなどと言う人がいるけれど、ちょっと気が知れない。確かにUFOはそのあたりにうじゃうじゃいるのだろうと私も思う。でもそれをこの目で見て知ることと想像することは、妊娠と想像妊娠くらい違う。地球内だけでも結構謎にまみれていて、でもなんとかバランスをとって生きているのに、UFOなんかを見てしまったら均衡が崩れそうで面倒である。友人には『キテレツ大百科』でも観て心を和ませるよう助言しておいたナリ。
 夜は鮨屋へ。のれそれ(穴子の稚魚)ポン酢、目光の唐揚げ、金目鯛刺が美味。シャブリを一瓶開けた。この店はどれだけ飲んで食べても、いつも一人7,000円である。自分で払ったことはない。

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カタカナ: スクリュー screw

 豚(scrofa)の尻尾が螺旋に巻いてあることに由来していて、一般的にはねじくぎや栓抜きのような螺旋状のものを示す言葉。前回に続いてプロペラに関連した話である。
 スクリューとは船のプロペラのこと。19c以前はパドルといって遊覧船や白鳥号の後ろについている水車みたいなもので水をかいていたが、プロペラの開発に伴いスクリューが活躍するようになった。また飛行機でジェット推進が主流になったように、今では船もウォータジェット推進が主流である。
 スクリューは飛行機のプロペラと違って推力以外に舵取りの役目も果たしている。車におけるタイヤと同じで、その向きを変えることで方向が決まる。ちなみに飛行機の舵取りは三次元移動のため船舶よりは複雑。主翼の付け根付近の座席に座ると翼のはじっこにぱたぱたしている板が見えるけれど、あれと同じものが水平尾翼と垂直尾翼にもついていて、それらを動かすことによって上下左右の方向を決めている。
 ところで水中翼船という船をご存知だろうか。両祖母の家が瀬戸内海を挟んでいた都合で、私は毎年夏になると三原ー松山間をこの船で移動していたのだが、その名の通り船体の下に翼がついた船で、その揚力(浮き上がろうとする力)によって水面から浮いた状態で走る。船体が水に浸かっているよりも摩擦が減って高速度が出るというわけだ。しかしそれはまあ左右前後によく揺れて、必ず船酔いするので大嫌いだったけれど。現在はジェット推進型のものが福岡ー釜山間(ビートル)や鹿児島ー屋久島間(トッピー)などを走っている。
 浮くといえばホバークラフトである。日本では大分空港ー市内間が唯一の就航路。水中翼船の場合は船体と翼が繋がっているので浮いたといって完全ではないのだが、こちらは完全に宙に浮いて走る。そのぶんスピードも早い。艇体と水面(あるいは地面)の間に圧縮した空気を送りこんで浮き上がり、プロペラ機と同じようにプロペラで進む。舵取りも飛行機と同じで、船体についた可動式の板を動かすことでバランスをとっている。

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2007年03月18日

日記: ノイズ系

 旅行から帰って来たら注文していた葡萄酒3ダースが届いていた。実家のほうにも2ダース届いていて、まあほんとに誰がこんなに飲むのかしらと白々しいことを思いながら整理した。あとはちらっと買い物に出ただけで、基本的には何もしない一日。疲れているのか、すぐに眠くなる。150回くらい欠伸をしたかもしれない。
 日記の更新が遅れていると気にしつつも筆をとらないのは私が自堕落な人間だからに相違ないのだけれど、そういうことしてると読む人が一人減り二人減り、しまいには誰もいなくなるんだよイヒヒ、あ、本人が一番わかってるよねごめんごめん、と家人が言っていた。いつの間にかロックからノイズ系に転向したらしい。
 ところでiPODだけれど、所有のCDを全部入れようという明らかに無意味なキャンペーンが続行中である。ようやくロックのSの棚まで入った。次は邦楽、次はジャズとブラジル系、そして最大の難関クラシックが待ち受けているのだが、果たして乗り越えられるのか?!

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カタカナ: プロペラ propeller

 pro(前方へ)+pel(駆り立てる)、つまり「前進させる」というのが元の意味。飛行機や船舶においてエンジン出力を推力に変える装置のことである。飛行機だと今はジェット推進が主流なのでプロペラ機は少なくなっているが、例えば先日高知で胴体着陸したのはプロペラ機。ジェット機に比べるとスピードも遅く積載量も少ないが、何しろコストがかからないので利用客の少ないローカル路線には現在でも多く就航している。
 プロペラは羽を回転させることによって空気を後方へ押し出して前へ進む力を生み出すわけだが、羽に角度がついていないと空気は動かない。逆に角度をつけ過ぎると抵抗が大きくなりうまく回転しない。昔竹とんぼを作った時に羽の削り具合を調節するのに苦心した記憶があるけれど、飛行機なんかの場合にはこの最適バランスを計算して設計されているわけだ。
 現在は主翼の手前にプロペラが二つついている機が主流だが、昔は鼻先やお尻にひとつだけついているものが多かった。デザイン的にはこちらのほうがかっこよく、模型飛行機はこのタイプが多い。軍用機では左右に二つずつついているものもあるし、二重反転プロペラといって同軸に逆回転のプロペラを重ねてつけるものもある。
 私も今までに何度かプロペラ機に乗ったことがあるが、一番印象的だったのはオーストリアのインスブルックからパリへ飛んだ時である。アルプス山脈を左手に見ながらスイスを横切ってパリに入る。プロペラ機はジェット機に比べて限界高度も低いため低空を飛行することになるのだが、これが最高だった。窓をのぞくとすぐそこにアルプスの白い頂が連なっているのだ。時空を越えて夢の中に浮かんでいるようで、なんだかものすごく感動したのを覚えている。

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2007年03月16日

日記: わんわん

 嫁ぎ先の皆様と共に伊豆へ赴き、『わんわんパラダイスホテル』ていう前のめりなネーミングのホテルに宿泊する。従業員がハイハイをして客にかしずいてくれるわけではない。ネコ目イヌ科の哺乳類同伴可という意のわんわんである。当然だけれど、宿泊客はみんな犬を連れていた。ミニチュアダックスフンドにウェリッシュコーギー、チワワ、フレンチブル、どでかいピレネー犬もいた。犬好きの血がうずくが、人のものなので気安く触るわけにもいかず残念であった。
 私どもの連れ犬はパピヨン。小さいボディーにふさふさの毛、小首をかしげてこちらを見上げる。可愛い。はずなのだがなんとこの犬、私がこれまでに出会った犬の中で抜きん出て最低な犬なのだった。うなる、ほえる、無視する、ふんぞり返る、笑わない、嘘泣きをする。犬なんてものは性格がいいのが取り柄なのであって、性格の悪い犬なんぞは焼いて食っちまえと言いたいところだが、飼い主である伯母さまや義母の手前そういうわけにもいかない。120%彼女たちの躾が悪いと思うのだが、そんなこと言ったらますます嫌われてしまうので危険である。だから「可愛いですね」とおべっかを使いながら、陰で13回くらい中指を立ててやった。
 そういう気疲れもあって、11時には床に入り朝8時まで熟睡。

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カタカナ: チューインガム chewing gum

 今も私はくちゃくちゃやりながらこれを書いているのだが、考えてみると特に美味しいわけでもないし、脳の活性化を実感できるわけでもなし、それなのに気付くと手が伸びていて一日平均6粒は噛んでいるだろうか。どうやらパソコンのモニタを睨むとガムが欲しくなるという回路が出来上がってしまったようだ。他のことをしている時にはちっとも欲しくないのに。だからデスクにはキシリトールの青か緑のボトルが常備されている。
 小さい頃は風船ガムが嬉しくてたまらなかった。特にバブリシャスのぶどう味がお気に入りで、膨らませては割って鼻にひっつけたりした。そのうちはっか味の板ガムを父に貰うようになり、すうすういわせて清涼感を堪能した。いずれにしても噛んでいる間はずっとガムのことを考えていた。決して日常的な食べ物ではなかったのだ。
 あまり褒められた食べ物ではないという風潮も強かった。おそらく始終口を動かしているのが下品に映ったのだろう。それがある頃から顎を動かすと脳によいとかリラックスできると盛んに言われるようになり、今ではガムを噛みながら試合に臨むスポーツ選手もめずらしくなくなった。
 サッカー選手の城が中傷されたのも今は昔である。裁判長が風船ガムを膨らましながら死刑を宣告したわけでなし、徹頭徹尾エンタテインメントなんだから嫌なら見なきゃいいじゃないかと思っていたけれど、常識うんぬんの話になると世間というのは俄然燃え上がるものでございゃすなあ(ビビる大木風)。
 チューインガム豆知識をひとつ。噛み終えたガムが万が一衣服にくっついてしまった場合は慌てて剥がさないこと。氷でこすれば綺麗に剥がれます。

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2007年03月14日

日記: 直接話法

 誰それがこんなことを言っていたと人に伝えるには二通りの言い方がある。英語でいうところの直接話法と間接話法というやつです。
・He said ,"I want to die".
・He said he wanted to die.
 日本語だと「あいつ、死にてえって言ってた」という具合に字面にすれば同じなのだけれど「死にてえ」の部分をその人の真似をして言うかどうかで話法が異なる、と私は便宜的に考えている。
 それで、どんなふうに使い分けているのかと思い起こしていたら、あることに気がついた。私は直接話法を多用する女なんである。「11時に渋谷だってさ」とかいう事務的な用件はさすがに間接話法だけれど、「市民税払えって」なんかになるともう直接話法である。私の肉声をお届けできなくて残念なのだが、いけ好かない人の声で軽くすごんで伝えたりする。
 友人の話なんかはもちろん直接話法、顔真似や身振りをついたりする場合もある。基本的にその人の真似をして喋ったほうが話もよく伝わると思ってのことなのだが、はてさてその効果やいかに。
 いっぽうで直接話法をいっさい使わない人というのも結構いて、特にもの静かな男性に多いような気がする。あるいは真似が恥ずかしいのかもしれない。今度聞いてみることにしよう。家人はよく女の口真似をするのだが、一種類しかないのがおもしろい。どんな女が喋っても「あたし、……なのよね〜」とおかま口調なのだった。
 夜、来客あり。お土産のサンジュリアンのセカンドワインを飲む。パイパーエドシックも一瓶飲み干す。ゆえに後片付けの際におろしたばかりのリーデルのボルドーグラス(2,600円)を粉砕する。しゅん。

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カタカナ: トースター toaster

 家電の中でウォッシュレットの次に重宝しているのがトースターである。今は電子レンジがどんどん進化してグリル(網焼き)やオーヴン(蒸焼き)機能を兼ね備えているので、わざわざト−スターを別個で持つ必要はなかったのだけれど、パンをよく食べるなら火力も強いし何しろ早く焼けるから是非に、と店員に勧められて買った。結果、大正解だった。
 電子レンジはボタンがややこしいし、内部に棚がないのでちょっと焼くにも手間がいる。その点トースターはさっと置いてタイマーをひねればいいので楽ちんだ。揚げ物も電子レンジでちんしてしまうと脂がまわってぐちょっとするけれど、トースターだと衣がかりっと仕上がる。はんぺんやさつま揚げ、冷凍のフライドポテトも美味しく焼ける。しかも値段が安い。3,000円も出せばとびきりのものが買えるのである。デザイン的にはポップアップ式がお洒落だが、あれは食パンしか焼けなくていささか不器用すぎて却下。
 冷蔵庫にしても洗濯機、エアコンにしても多機能を誇るタイプが市場を席巻しているようだけど、私はメカ音痴ということもあって、できるだけボタンが少なくシンプルな家電を好む傾向にあるようだ。冷蔵庫もあんなにたくさん部屋があったのではどこに何をしまったのか、しまいにはうっかりトマトを凍らせてしまいそうで、そういう意味でもトースターは理想的な家電である。

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2007年03月13日

日記: 式典

 新横浜に向かう大通りを歩いていたら、前方から紺の背広を着た人の群れが押し寄せて来る。横浜アリーナで会社の式典か何かがあったのだろう、威勢良く大股で歩く彼らと私の距離はぐんぐん縮まり、やがてはその群れに飲み込まれ、エジプトを脱出するモーセのように人の海を割って歩くのだけれど、その波はいっこうに収まる気配がない。むしろ鉄砲水のごとく増え続けその数は3万人をくだらないように見受けられ、おまけに彼らの顔はその格好と同様ほとんど画一的な表情をしていて、そのことに疑問を感じている人間もほとんどいないようで、目眩というか吐気というか、私はすっかり人気にあてられてしまった。
 彼らと私はその昔机を並べたこともあっただろうに、ずいぶん遠く離れてしまったものだ。残念なわけではない。誇らしいわけでもない。私は私の道を行くしかないと思うだけである。
 という物思いの脇で家人は「この人たち、きっと全国育毛コンテストの帰りだよ」とか「マイクロダイエットの決起集会かもしれないね」などと騒いでいた。あるいはそうだったのかもしれませんね。
 式典といえば数年前にバイト先の決起集会に参加したことがある。好みでないのはもちのろんなのだが、実はそれほど退屈でもなかった。この中で男色は誰だとか不倫しているのは誰だとか、癌細胞に気付いてない気の毒な人は誰だとか一番早く死ぬのは誰だとか、そんな想像を重ねて時には笑いそうになったりして、いささかけったいな趣味ではあるけれど、少なくとも社長の訓話に耳を傾けるよりははるかに有益だと思われる。もちろん二度と参加したくないけれど。

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カタカナ: イースター Easter

 キリスト教国家ではないのにクリスマスがここまで年中行事として定着している国もめずらしいと思うのだが、日本の節操のなさについて論じるのはまたの機会に譲ることにして、今日はイースターである。
 復活祭とも呼ばれ、キリスト教においてはクリスマスと並んで、あるいはそれ以上に重要な行事である。クリスマスがイエス・キリストの誕生日だとするとイースターは二回目の誕生日、人間イエスが神になった日である。イエスは人類の罪を一身に背負ってゴルゴダの丘で十字架にかけられいったん息を引き取り、三日後によみがえる。とにかく、よみがえったのである。その日を祝うのがイースターというわけだ。
 この歴史的な出来事がなければ世の芸術作品は半減していたのではないかと思われるほど多くの芸術家たちが事の顛末を銘記してきたし、最近でもメル・ギブソンが『パッション』を撮ったように今後も芸術の格好の題材であり続けることは間違いない。なにしろ死んだ人間が生き返ったわけだから、みんな思うことは色々あるわけである。
 宗教なんてものは「生き返った」と告げられれば生き返ったことになるのだから、復活がフィクションかどうか論じることは無意味だし、宗教を離れたとしても意味のないことだと私は思う。それは例えば『カラマーゾフの兄弟』が実話どうか議論するようなもので、たとえすべてがフィクションだったとしても素晴らしい物語というのは実話を越えた輝きを放って人々を魅了するのである。
 イースターとはもともと「輝く」という意味。復活祭の日付は「春分後の満月直後の日曜日」と太陰暦時代に定められ、これを太陽暦を採用する現在に適用すると毎年日が異なることになる。ちなみに今年は4月8日、来年は3月23日、という具合である。
 欧米ではサッカーのリーグ戦がお休みになるほど国民的な休日。イースターエッグといって殻に絵を描いた卵を飾ったりして祝う風習もある。墓から出てきたイエスを殻を割って外に出るひよこになぞらえてのことだそうだ。卵形のチョコレートも多く出回っている。ヨーロッパのお菓子屋の軒先にはこの時期になると色とりどりのイースターエッグが並び、なかなか可愛らしい。そういえば昔日本にもチョコの殻を噛み砕くと中からおもちゃが出て来るお菓子があったが、あれはクリスマス同様イースターを定着させる商戦だったのだろうか。だとしたら目論みは外れたようだ。

投稿者 shiori : 17:29 | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年03月11日

日記: finite

 家人と散歩していて、同じような日々はずっと続くかのように見えるけれど実は絶対に続かないんだよね、という話になった。誰だって(祖母でさえ)今日も明日も明後日も生きていそうに見えるけれど、それは希望的観測にすぎない。でも明日死ぬかもしれない可能性に取り憑かれることなく、生を楽しめるのが人のすごいところだ。怠惰で鈍くて諦めがよくって、そういうふうに創られていて本当によかったと思う。
 この世のすべては有限だ、という話にもなった。でも例えば円周率なんかはどうだろうか。ひとっこひとりいない世界になっても円周率は謎めいた数字の羅列を生み出し続けるのではないか。それを認識する知能がないだけで円周率自体は無限なのでは、と言うと、家人は宇宙自体が有限なのだから最後には円周率も何もすべてなくなるのだと言う。何にもなくなるってどういうことだろう。おそらく私たちに言えるのは、それは言語では決して語れない(論理的に)ということだけではないだろうか。
 夜は串揚げと薩摩揚げを食べた。ここのところ脂抜きだったので、身体が喜びむせび泣いていた。薩摩揚げは鹿児島の有村屋という店から取り寄せたものなのだが、もう美味しくってどうしましょう。ご興味ある方は是非に。
http://arimuraya.co.jp/index.html

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カタカナ: リアス式海岸

 日本だと岩手の三陸海岸や若狭湾や志摩半島などが有名である。海岸線が鋸の刃のように入り組んでいる場所を指す。英語ではそのままsaw-toothed coastlineと呼ぶ。
 地殻変動で沈んだ陸地に海水が流れ込み長年の浸食の末にあんな格好になったとか、氷河期終結による海面の上昇の結果とか言われているが、いずれにしても水深が深く外部から近づきにくいため舞鶴のように軍港として機能したり、魚介類の良い住処になり英虞湾のように真珠の養殖に適していたりする。逆に津波の被害が大きかったり、いきなり断崖絶壁になっている箇所も多く、陸地側は色々と不便である。
 リアとはスペイン語で入り江の意。スペイン北西部にリアスバハス海岸にちなんでリアス式と命名されたらしい。スペイン巡礼のゴール地点であるサンティアゴ・デ・コンポステイラはこの海岸から少し内陸に入ったところに位置していて、魚介類が美味しいという風評も頷ける。
 それにしても地図を眺めていて思うのは、日本の海岸線は複雑でおもしろい。瀬戸内海に浮かぶ塵のような島々や長崎のあたりはぶちまけられたジグゾーパズルのようだと思えば、一方では九十九里とか北海道とかは馬鹿みたいにまっすぐな海岸線で、なんとなく鼻の下がのびたおじさんのようで笑える。高知県のくびれはなかなか格好がいいとか薩摩半島よりは下北半島のほうが好きだとか、地図帳とはかようにいつまで見ても飽きない本である。

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2007年03月08日

日記: either

 自宅と実家両方で家事をしていて思うのは、人は基本的にひとつの場所にしか心を注げないということだ。つまり二つの家の台所を同じようにぴかぴかに磨くことはできない。やはり実家の台所は少し手を抜いてしまう。もう私の家ではないという意識の問題もあるけれど、たとえこれが両方私の自宅だったとしても心を注ぐのはどちらかの自宅だけだと思う。
 そういう意味では、愛人を囲う人はすごい。二重生活というのは基本的にしんどいもので、まず別宅から自宅までの移動時間が無駄だし、歯ブラシから枕からすべては2セット必要だし、どちらの家に何を置いたか頭が混乱するし、そういう出費や疲労をよそに複数の相手の機嫌をとらなくてはいけない。これはもう体力のあるまめな人にしかできない芸当なのである。なにより罪悪感をものともせず生活を楽しめるところがすごい。今はやりの鈍感力に優れた人か。
 今週あたまにもう平気かと思ってワインを飲んだら脂汗の出るほど胃が痛くなり、えらい目にあった。まだ本調子ではないらしい。今日で5日目の禁酒。やればできるじゃん、と誇らしい感じである。

投稿者 shiori : 16:32 | コメント (0) | トラックバック (0)

カタカナ: マラソン marathon

 マラトン(Marathon)という都市名に由来しているのは有名な話だ。アテナイ軍がペルシャ軍を破り、その勝利を伝えるために某クレスだか某ピリスだかがマラトンからアテネまで走ったのである。0.195kmの端数はのちに競技化された際に来賓席の正面をゴール地点に定めたため、競技場内の距離ということらしい。
 それにしても過酷なスポーツである。特におもしろいわけではないのだが、TV中継されているとなんとなく見てしまう。すると時々競技場内でのデッドヒートを見かけることがあって、二時間以上走っていてなぜ一秒差しかつかないのかと首をかしげたくなるが、おそらくそれ以上速くはどうがんばっても走れないのであって、人が42kmを走るのはそれくらいハードなことなのだと思う。
 女子の場合だと2時間26分を切れば国際舞台で戦えるチャンスが与えられる。これはおよそ17km/hという速度に相当する。普通の人のジョギングは10km/h、12km/hに上げると苦しいと感じる人も多く、これが15km/hになるとたいがいは1分もたたぬうちにギブアップする。17km/hというのはそういう数字。超人、の一言である。
 それでもマラソンはちょっと魅力的だ。先日も東京マラソンというシティマラソンが開催されたけれど、素人であっても走ってみようかと発心する気持はよくわかる。要は走ればいいのだし、やってやれないことはない感じがするのである。山を見たら登りたくなる趣味の人がこの世には案外多い。
 私もどちらかといえばその類であり、近いうちに走りたいと考えてかれこれ3年が経過しているのはトレーニングを想像して腰がひけているためである。最近はipodもあることだし、がんばれるだろうかと甘い夢を見たりする。

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2007年03月03日

日記: 観て泣く

 腹の立つことがあったり気になることがあったり寝不足が続いていたり、昨晩はあまり食がすすまないなあと思っていたら、今朝起きるとやはり具合が悪くなっていた。胃が痛くてまっすぐ立てず、終日寝込む。
 天気が良くぽかぽかとした休日、天井を見上げてひとり寝ていると嫌なことばかり考えてしまう。音楽は聴きたくないし、ネットをする気にもならない。うつ伏せになると胃が痛いので本も読めず、仕方がないので映画を観ることにした。
 ティム・バートン監督の『ビッグフィッシュ』という映画である。これがものすごくよかった。体調不良のせいもあったかしれないが、久しぶりにずるずると泣いた。決して哀しい話ではないし、『チャンプ』とか『ニューシネマパラダイス』なんかのように泣ける一本に分類される映画ではないけれど、幸せに胸がつまる感じと言えばよいだろうか。風景が明るくて透き通っていて、ティム・バートンの描く天国はとても素敵だった。この世と天国は近いようで遠いから切ない。
 夜は梅粥。家人の買って来てくれたみかんゼリーが美味しかった。

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カタカナ: マニキュア  manicure

 マニュアル、マナー、マニフェスト、マネージャー、マニュファクチャー、これらの単語の頭につくmani-やmanu-はラテン語で手という意味である。cureが世話や保護を指すので、マニキュアは手の手入れということになる。
 ペディキュア(pedicure)のpedi-はもちろん足のことだ。ペダルが良い例。探検や遠征を意味するexpedition、ペットフードやプロレス技で有名なpedigree(家系)なんかもそうである。ちなみにペディグリーは直訳するとfoot of crane、つまり家系図の形が鶴に似ていたのでついた名称だ。
 私自身はほとんどマニキュアはしない。3年に一度の頻度で思い出したように塗ってみてしばらく遊ぶのだけれど、すぐに面倒になってやめてしまう。簡単に剥げるくせに、修繕にはかなりの手間が要る。燃費の悪い車みたいなものである。爪が黄色くなるのも哀しい。肝臓の悪い人の顔色みたいであまりぞっとしない。でもここぞという時には普段から手入れをしていますという顔をして、赤やら橙やらを塗ったりもする。そのほうが男の人に好かれる気がするからだけれど、まあ気がするだけのことである。
 そういえば最近テレビや電車で長い爪をした女子を見かけるけれど、あれは洗髪やキーパンチの際に邪魔ではないんだろうか。あれじゃ楽器も弾けないだろうし、缶ビールも開けられないだろう。でも殺傷能力はありそうなので一長一短かなと思っている。

投稿者 shiori : 14:01 | コメント (0) | トラックバック (0)