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2007年09月28日

日記: 中川家

 お笑いはわりと好きなほうだが、テレビをあまり観ないのでさほど詳しいわけではない。とりわけ最近の人のことはよく知らない。今日ウッチャンナンチャンの番組(全員笑わせたら100万円みたいなやつ)を観て、ようやくチュートリアルの顔と名前が一致したくらいだ。ペナルティ、インパルス、ブラックマヨネーズ、バナナマン、キングコング、フットボールアワー?、コンビが入れ替わってもおそらく気付かないだろう。まあしかしそれは私の問題というよりはむしろ彼らの問題で、特徴のない芸をするほうが悪いんである。というか、食べたり歌ったり運動したりクイズに答えたり、その合間にちょろっと喋るのは芸とは呼ばないのであって、本業の漫才をやらせてもらえない彼らも気の毒である。要は安いバラエティ番組ばかり作るテレビが悪いのだな。
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 そんな中、私が好きなのは中川家である。今日の番組でも抽んでておもしろかった。ほこりを食べるおばけ、だって。小島よしおが何回生まれ変わっても到達できない境地である。中川家は喋りのうまさより何より、情が濃くて土臭いところがいい。ブルースやなあ、と思う。お兄ちゃんもいいし、礼二もいい。どっちがより好きと言えないところがまたいい。
 少し前になるけれど、麒麟田村の『ホームレス中学生』も読んだ。エピソードとしては満点なんだけれど、語り口のせいで面白さが半減してしまっているのが残念だった。もったいなかった。
 文章でも喋りでも絵画でも写真でも、表現というのは、何を語るか、どう語るか、すべてはこの二点に尽きるわけで、それこそ心と身体が手と手を携えて初めて健康が得られるように、どちらかが未完成でもバランスが悪くてもいけない。その塩梅を調節するのが「芸」なのだ。そういう意味でいっても、中川家は本物の芸人だと思う。
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カタカナ: ピン pin

1 とめばり
2 ボウリングの徳利型標的
3 ゴルフのホールに立てる旗竿
 ピン、と広辞苑をひくとこのように書いてある。このピン(pin)の語源はラテン語のpinna(鳥の羽根)、その後古英語で木の釘を示すようになった。押し当てる、差し込む、という意は釘から来ているわけだ。ちなみに筆記用具のペン(pen)も同語源である。これはかつてのペンは羽根を使用したため。
 その下にもうひとつピンという項目があって、こちらは
1、カルタ・采の目などの1の数
2、はじめ 第一 最上のもの
 とある。
 こちらの語源はポルトガル語のpinta、英語だとpoint(点)にあたる言葉だ。ポルトガルから伝来したカルタで一点の札をピンと呼んだのが始まりだと言われている。「ピンからキリ」までという慣用句があるが、これはキリがカルタで最後の札を指したことに由来している。日本ではスタンダップコメディアンのことをピン芸人というが、このピンもポルトガル語のピンである。また、上前をはねることを「ピンはね」というが、このピンも然り。これは江戸時代、歌舞伎の興行主が役者のギャラを一割徴収したことからそう呼ばれるようになった。ぴんと来た、や、背筋をぴんと伸ばす、の「ぴん」は、ものが強く張るさまを表す副詞。上記のぴんとは関係ない。

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2007年09月24日

日記: ほんとイモね

 横浜元町にライブを観に行って、少し時間が空いたので、一人で食事をしに行った。気安い雰囲気のバールに入って、グラスワインとおつまみをいくつか注文した。一人で飲むのも時にはいいもの、カウンターに腰かけてほろ酔いの頭であることないこと考えて、あら楽しい。
 となるはずだったのに、店員がうるさいのである。今日はチャーミングセールでいらしたのですか、元町はよく来られるのですか、ピザがお薦めですよ、寒いですよね最近。
 少し黙りませんか、というのである。むこうにしてみたら、女の一人客、それもいささかとうのたった女が二杯も三杯もワインを飲んで、連れを待っているふうもないし、暇そうにぼうっとしているし、気になるのかもしれない。話しかけないと可哀想と憐れんでいるのかもしれない。
 百歩譲って最初の十分は我慢しよう。中には話しかけてもらうのを待っている客だっているのだから。でも私は「話しかけるな」オーラをびんびん出しているのだから察して頂きたいわけである。しかしその野暮天はまったく気付かず、あまつさえ他の店員にも話しかけるように命じる有様、しまいには「見てください、ここの厨房は動物園みたいで楽しいでしょう、目が合うと彼らは少し微笑みます」などと言い出した。とびきりの冗談を飛ばしているのか、素で喋っているのか、いずれにしても限界です、と思った私はそそくさと退散したのだった。
 もう、横浜って、ほんとイモね。
 その後、友人たちと12時まで飲む。こちらはとても楽しかった。
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「毛繕いしているのに邪魔しないでくださいよ」
と言い残してどこかへ行ってしまった。

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カタカナ: スキャンダル scandal

 スキャンダル、と広辞苑でひくと「不名誉な噂、醜聞、不祥事」と書いてある。金、暴力、セックス、薬物、分類としてはそんなところだろうか。スキャンダルと一口にいっても、ロッキード事件のように歴史に名を残すものから、女を囲っていたり大麻を保持していたり、運の悪さを露呈するものまで種々あるが、程度の差こそあれそれなりの社会的制裁を受けるのが通例である。
 スキャンダルの語源はギリシャ語のskandalon(罠、つまづきの石)である。デマ(demagoguery:事実に反する宣伝)の語源demagogos(デマゴゴス、民衆煽動家)と同じで、紀元前4cのアテネで生まれた言葉だ。賢者ソクラテスに無知を暴かれて嫉妬と憎しみを募らせた人々は、なんとかしてソクラテスを失脚させようと罠を仕掛け、詭弁によって民衆を煽動しようとした。正面きって勝負するのではなく、悪いイメージをねつ造することでダメージを与えようとしたわけだ(結局ソクラテスは死刑になった)。あれから2400年経った現在でもその方法を有効と考える人は少なくない。
 似たような言葉にゴシップ(gossip)というのがある。有名人の噂話なんかを指すが、噂(rumor)よりは多少なりとも悪意が含まれるものをいうようだ。ゴシップの語源はgod(神)+-ssip(縁、親戚)、つまり神の親戚たちがする話という意味。
 私の実家は夕刊フジと週刊朝日と文藝春秋(?)を愛読するかなりゴシップ好きの家庭で、私も昔は詳しいほうだったが、この5年くらいはすっかり興味を失ってしまった。公序良俗が乱れる昨今、まあ生きてればそれくらいのことはあるよね、という感じで、あまり驚かなくなったからだろう。

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2007年09月23日

日記: 自堕落

 昨晩遊びに来た友人と夜更けまで飲んで、彼はそのまま泊まったので、朝一緒に起きて適当なご飯を食べながら4時間くらいだらだらと喋った。そのうち再びビールを飲み出したりして、この自堕落な感じがいいなあと思うのである。けだるくて、少し罪悪感があって、それでもやはり自由で。前の日の酒が残っていて身体も緩んでいるし、眠ったことで気も緩んでいるし、会話がより親密になるところもよい。普段聞けないことが聞けるし、普段言えないことが言える。男と女もそうかもしれないが、友人も共に朝を迎えてみないとわからないことがたくさんあるのだ。
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 両親が戻ってきたので、泊まり込み介護は終了。夜は黒豚しゃぶしゃぶを食べに行った。柚胡椒を溶いた出汁が美味。ぐるなびの10%引きクーポンを見せたら、お好きな焼酎を一杯サービスします、と店員が言う。10%引きか焼酎一杯かサービスを選べ、という意味かと思ったら、値引きした上に一杯飲ませてくれるのだという。店が太っ腹なのか、ぐるなびの圧力なのか、もちろん御馳走になったけれど、妙な気分だった。愛想の良すぎるのは無愛想より苦手である。
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ピアノの鍵盤、パソコンのキーボード、オーディオやテレビの裏面表面、家具の隙間、そして階段、積もりゆく埃を感動的に吸い込みます。一等賞。

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カタカナ: ラジャー roger

 了解を示す英語で日本語化しているのは、オーライとオーケーである。オーライはall right、ではOKは何かというと、発祥は19cアメリカのボストン、起源は諸説あるようだが、all correct、を、oll korrect、とスペルミスしたのがそのまま定着した説が有力らしい。わかったようなわからないような話だが、その後南北戦争によってアメリカ全土に浸透し、二つの世界大戦を経て世界中で使われるようになった。ちなみに対にして使われるNGはno goodの略。
 ラジャーというのもある。ヒーローもののアニメや飛行機の登場する映画で「ラジャー、オーヴァー」と言うのを耳にするが、これはそもそも無線用語である。無線通信が始まった当初は環境が悪く、聞き間違いを防ぐためにフォネティックアルファベットを使用していた。ロンドンのL、ハワイのH、というやつだ。それで「received&understood(了解)」の頭文字Rのコードが人名のRogerだったため、簡略化して「roger」と言うようになった。
 アイアイサー、というのもある。綴りは、aye,aye,sir、こちらは船乗り用語。ayeとは古い英語のyeaが訛ったもので、yesやyeahと同じく「はい」という意味である。sirは目上の人への敬称なので、日本語の「かしこまりました」に近いだろう。私はこのアイアイサーを聞くと、船のマストに猿がよじ上っている光景が浮かぶ。「ア〜イアイ、おさ〜るさ〜んだよ〜」の歌と混同しているのだ。間違いない。
 ところで船乗り用語といえば「おも〜か〜じいっぱい、と〜りか〜じいっぱい」というのがある。これは面舵(右)取舵(左)を目一杯回せ、という意味の日本語だが、その後ろにくっつく「よ〜そろ〜」も実は日本語である。漢字で書くと「宜候(ようそろ)」、つまり舵の必要はなくまっすぐに進めという意。宇宙戦艦ヤマトを観て口真似された方も多いのではないでしょうか。

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2007年09月20日

日記: ヨーワ

 最近、人と話していて気になることがある。男性に多いように見受けられるのだが、「要は」という言葉をやたら使うのである。1パラグラフにつき1回、ともすれば、1センテンスにつき1回のペースで、ヨーワヨーワ言う。当然こちらとしては「お、今からカナメとなる言が来るのだな」と身構える。しかし「なるほど、そういう話だったのか」と溜飲を下すことは少なくて、たいていは前述の続きだったり補足だったり、これといった話の進展は見られない。要は、と言ったはいいが、終わらせるにはまだ早かったのだろう。そういうことはよくある。こちらも先が気になるから再び話に耳を傾ける。するとまた「要は」と言う。身構える。肩透かしを食う。という作業を数回繰り返すうちに話の内容もよくわからなくなり、「要は」探しというか、もう「要は」しか耳に入らなくなる。
 要は「要は」は「要は」ではないのだ、要は。
 言うなれば「えっと」や「ん〜」と同じ間投詞の類いなのである。これは私の推測なのだけど、きっと彼らは仕事上の説明や説得に追われるうちに「要は」という言葉が便利だと考えたのだろう。相手の注意を喚起できるし、自分にもプレッシャをかけられる。しかし言葉の宿命として、使用頻度が増せば、そのぶん意味は失われる。そしてひとたび集団的口癖になってしまえばあとは飽きるまで垂れ流すだけ、再び意味を取り戻すには風化するのを待つしかない。青空のもと枯れ木が風に吹かれているような、もの哀しい光景である。
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カタカナ: テノール tenor

 先日オペラ界のスーパースター、ルチアーノ・パヴァロッティが亡くなったが、彼の声は伸びやかで艶があって力強くて、まことイタリアの青空のようだったと思う。ホセ・カレーラス、プラシド・ドミンゴと並んで三大テノールと称され、そのCD売り上げはストーンズを超えたとも言われている。
 テノール(tenor)とは男声の高音域のこと。ラテン語のtenere(保つ)から派生した言葉である。ピアノ鍵盤中央のド(c1)下のソからオクターブ上のド(c2)あたりが守備範囲。私の音域とちょうど重なるくらいだから、男性には相当高いだろう。男性歌手の花形ポジションで、オペラの演目でも主役はおおむねテノールだ。
 テノールより低い音域がバリトン(baritone)。これはギリシャ語で「重い」を意味するbarysから派生している。レントゲン検査のバリウムや気圧計を意味するバロメータと同じ語源だ。さらに低いのがバス(bass)。英語だとベースと発音する。ベースギターの4弦開放(E)あたりが下限とされている。あんな低い音出るのかと思うが、出るのである。すごい。
 女声で一番低いのはアルト(alto)。これはイタリア語で「高い」という意、つまりテノールよりも高い音域というわけだ。アルトより高いのはメゾソプラノ(mezzo soprano)。mezzoとは半分、中間。ソプラノとアルトの中間ということになる。そして女声最高音域のソプラノ(soprano)だが、これはsupra(ラテン語:〜を超えた)からきている。c1の2オクターブ上のド(c3)くらいまでは楽々出せる人たちである。モーツァルトの『魔笛』に有名な高音アリアがあるけれど、最高音はc3上のファ。こうなると歌うほうも大変だろうが、聴くのもしんどい。もはや曲芸の域。ソプラノはテノールと同じく花形ポジションで、マリア・カラスやシュヴァルツコップといった有名女性歌手はおおむねソプラノである。
 バスであれアルトであれ、プロなら2~2.5オクターブはカバーしているが、素人で聞くに堪える音域となると、せいぜい1オクターブ、少し訓練した人で1.5オクターブというところだろう。小室哲哉が昔ダウンタウンの浜ちゃんに曲を書いたとき、彼の音域が5音くらいなんで苦労しました、と言っていたけれど、まあそんなものだと思う。
 ところで、話し声の音域は歌声に比べてずっと狭い。男性はc2下のラからその上のミ、女性と子供はc1下のラからその上のミ。ちょうど1オクターブ違う。私の声はc1下のソ、と女性の中ではかなり低い部類だった。

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2007年09月16日

日記: 言い間違い

 立て続けに3回も言い間違えをしてしまった。まず、ドラエモンを「じゃがいも」と言ってしまった。次に、お風呂を「おしっこ」と言ってしまった。最後に、ヤワラちゃんを「アラレちゃん」と言ってしまった。どれも当たらずも遠からずというところだろうか。
 そうしたら家人が「家にこもりがちだからだ」などと言い出した。様々な人と話す機会が少ないから、脳の回路が錆びついているのだそうだ。ほほう。まあ確かにそうかもしれません。しかしなんですな、あなたも他人にそんな意見をするようになるとは、ずいぶん立派になったもんだ、これまでのあなたの人生を今ここでひも解いてあげましょうか、と思ったが口には出さなかった。我ながらできた女である。
 夜は新宿でフェイスフルのライブ鑑賞。したたか飲んですっかり帰る気を失ったため、オーストラリア人とフィンランド人と一緒にS家に連れて帰ってもらった。素面の昼間でも危ういのに、酩酊した夜更けに英語なんか喋れるかと思うけれど、彼らが一生懸命話しかけてくるのでむげにもできず、3時半くらいまで話す。何を喋ったのか、全部忘れた。明日は必ず二日酔いである。でも様々な人と話せて錆びついた脳の回路が少しでも活性化されたから、いい日だったと思う。
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昨日から秋祭りで、家の前の道がこういう具合。

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カタカナ: 動く標的 Harper

 今回は映画のタイトルと原題の話。
 音楽でも本でも劇でもそうだが、タイトルは作品の顔である。作者が腕によりをかけてその内容にふさわしいタイトルをつけている。だから翻訳する時もその意志を尊重して、原題をそのままタイトルにすることが多い。だいたい8割以上はそのままだろうか。『ゴッドファーザー』は『The Godfather』だし、『レインマン』は『Rain Man』。おそらく日本人の外国語能力の向上によるものだと思われるが、70年代以降はこの傾向が強い。
 しかし『サイダーハウス・ルール』だの『ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ』だの『ヴァルスーズ』のように意味不明なのもあって、なんでもかんでも馬鹿みたいにそのままがいいわけではない。状況に応じて手を加える必要はあるだろう。『Unforgiven』を『許されざる者』と日本語に置き換えたり、単語が難しければ『The Shawshank Redemption』を『ショーシャンクの空に』に変更したり、『The Magic of Lassie』を『ラッシー』と短縮したり、まあそういう腹具合も配給会社のセンスによるわけだ。
 意訳もよく見かけるが、これはさらなるセンスが問われる。『The Bad News Bears』を『がんばれ!ベアーズ』とか『A Woman under the Influence』を『こわれゆく女』なんて訳すのは上手いと思うけれど、『The Mighty Aphrodite』を『誘惑のアフロディーテ』と言われると首をかしげてしまう。まあウディ・アレン映画の原題は英語的にばっちりキマっているので、訳すのは難しいとは思うけれど。
 60年代は原題を温存せずに真新しい邦題をつけることが多かった。ジャンヌ・モローの『Jules et Jim』は『突然炎のごとく』、『Butch Cassidy and The Sundance Kid』は『明日に向かって撃て!』、キューブリックの『The Killing』は「現金に体を張れ」という具合。『Waterloo Bridge』に『哀愁』なんてタイトルがついていると、きばりすぎやと思うけれど、ポール・ニューマンの『Harper』が『動く標的』なんてのは格好いい。わくわくする。ヴィスコンティの『La Caduta degli dei』はイタリア語で「神々の堕落」という意味だが、これは『地獄に堕ちた勇者ども』になっている。「〜ども」がぴりりと効いている。
 近年もまったく別の邦題をつける例はあるが、付け方が実に安直である。おそらく「恋」とか「愛」の文字を入れれば流行ると思い込んでいるのだろう、『ムッシュ・カステラの恋』『シャンドライの恋』『恋愛小説家』『愛と追憶の日々』『愛と哀しみの果て』『愛の風景』『愛の嵐』、まったくなんだというのでしょう。もちろんこれらの映画の原題には愛だの恋だのいう言葉は一切入っていない。

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2007年09月12日

日記: 水族館とポルトガル

 品川水族館。雨降りの平日だから空いていると踏んでいたら、幼稚園の遠足やら老人会の集いやら障害者の校外学習やら、思いの他ごった返しているのだった。5歳児100人が一斉に喋るのだから、そのかまびすしいことったらない。魚たちもぎょっとしたとか。うふ。中にはおもらししている子もいて、先生たちは大変そうだった。
 魚類は食べる専門で、飼う趣味も釣る趣味もなく、いきおい名前もほとんど知らない。知らないとおもしろくない。ということで、魚類の水槽は素通りしてペンギンとアザラシを見物。ペンギンは言わずもがな、アザラシも愛嬌があってなかなか可愛い。すっとぼけた感じもいい。だいたいがのんびりしていて、アシカに比べると動きがずいぶんのろい。石のくぼみに頭を突っ込んだままオブジェのように直立しているのもいた。
 そしてお目当てのイルカショー。もうイルカたちがけなげすぎて泣けてきた。あんなに言う事を聞かせていいのだろうか、同じ哺乳類として。子供でも動物でもちっとも言う事を聞かないのは腹立たしいが、お利口さん過ぎるよりはずいぶんましな気がする。近くに寄ってみると、穏やかで賢そうな目をしていたので、余計に切なくなった。
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 そして最後にサメを鑑賞。どうですか。この冗談みたいに凶暴な顔。私の感傷も一瞬でぶち壊されたのだった。
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 夜はポルトガル料理を食べに行く。あえてその特徴を説明すれば、魚介の出汁とジャガイモとパクチー。見事、すべての料理にパクチーが入っていて、パクチーが入ると全部がパクチーになるので、要はパクチーなのだった。美味しいのだが、沖縄料理に似た「味一感」があって、5年に一度食べればいいかなというのが所感。スパークリングもワインもなかなか美味。
 トイレに昔のポルトガル代表の写真が貼ってあって、ああ、ルイ・コスタ(投げキッス)、と思った。今はクリスチャーノ・ロナウドの時代だが、確かに彼はファンタジスタだけれど、わざとファウルをもらおうとするところや少し意地汚いプレイが鼻につく。彼に比べると、技術は落ちるが、ルイ・コスタは本当に愛すべき選手だったと思う。

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カタカナ: スパイスとハーブ spice and herb

 かつてヨーロッパの人々は香辛料を求めて命がけで海を渡ったのです、と教えられて「そんなに大事かしら」と訝ったものだけど、まあ子供にはわかるまい、香辛料とはそんなに大事なんである。
 スパイスの原語はラテン語の「species(商品、種類、薬)」、これが転じて「特殊な品物」→「香辛料」となった。一方、ハーブの原語は同じくラテン語の「herba(草)」。いずれも料理に香りと味をプラスする調味料だが、ではスパイスとハーブの違いは何かというと、定説はないが、スパイスはヨーロッパに自生していないもの、ハーブは自生しているもの、という区別が一番頷ける気がする。胡椒やシナモン、ナツメグ、クローブなどはスパイスであり、品質が劣化しないよう乾燥させて粉状にした輸入したと言われている。一方、パセリやバジル、ローズマリー、オレガノ、ローレルといったハーブは生で使う場合もあるし、乾燥させる場合もある。
 それぞれ独特の風味があって、例えば牛肉にはホースラディッシュ、豚肉にはマスタード、白身魚には白胡椒、という具合に食材によって使い分けると料理がぐんと美味しくなる。単体ではなく複数のミックスパウダーとして使うことも多く、その最たるものがカレー粉と七味。最近ではチリパウダーやガラムマサラなんてのも人気だ。
 しかし日本でスパイスやハーブが食卓にのぼるようになったのはつい最近のこと、それまでの香辛料といえば、唐辛子、からし、わさび、山椒、生姜、しそ、茗荷など、生で頂くものが多い。今でもこれらの古株が圧倒的優勢で、香辛料売り上げの半分以上がチューブ入りのわさびの類いだとか。
 と思って我が家の香辛料状況を調べてみると、鷹の爪、ローレル、カレー粉、山椒、黒胡椒、白胡椒、オレガノ、サフラン、ターメリック(使ったことない)、冷蔵庫には粒マスタードと各種チューブ、とそれは淋しいもの。フレッシュハーブはバジルとパクチーを時々買うくらいだし、これを機にスパイシ&ハーバルライフをエンジョイしようと思ったり思わなかったり。
 ところで「parsley,sage,rosemary and thyme」と歌う『スカボロフェア』だが、これはそもそもサイモン&ガーファンクルの曲ではなく、イギリスの古い歌曲である。ハーブにも花言葉のようなものがあって、それぞれ「浄化」「耐久」「貞節」「度胸」を指す。清らかで遠くてもの哀しい名曲である。

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2007年09月11日

日記: ドラエモン

 いっちょやってみるか、と発心してクレーンゲームにトライした。いかにも落ちそうなのに、なかなか落ちないところが憎い。でも冷静になって観察すると、あれはクレーンで挟んで取ろうとしても上手くいかない。クレーンが下がった時に腕で押すか滑らすかして、横に少しずつ移動させて落とすほうが確実なのだ。結局、4回で取った。一回目にクレーンの動きを見誤ってロスしたので、本来なら3回で取れたはず。悔しい。クレーンゲームの景品にはあまり欲しいものがないので助かっているけど、病み付きになる人がいるのはわかる。戦利品はこちら。
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 右手の赤いところを押すと、一瞬浮き上がる。天気のいい日には「いってきま〜す!」と飛んで行ってしまいそうで、眺めているとちょっと切なくなる。
 『ナイロビの蜂』という映画を観た。つまらなくて参った。どことなく『イングリッシュ・ペイシェント』を彷彿とさせるが、あっちのほうが5倍はおもしろかった。50本くらい並んでいる話題作はやはり気になって借りてみるのだけど、満足する確率は低い。最近だと『ドリームガールズ』もぱっとしなかったし、『プラダを着た悪魔』もいまいちだった。メリル・ストリープはプロだなあと感心したけれども。私の趣味が偏っているのもあるが、作り方にも問題があると思う。だいたい話の飛び方についていけない。もう少し丁寧に描いてほしいところを、むやみにダイナミックな筋書きで押し切ってしまうから鼻白むのだ。次はもっと目を凝らして映画を選ぼうと思った。まあそれ以前にビデオ屋の品揃えにも問題があるのだが、ネットで借りて採算が取れるほど観るわけではないし、悩ましいところである。

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カタカナ: ノンノ non-no

 ファッション雑誌を読むのは美容室か歯医者か銀行の待合室、あとは電車の吊り広告を眺めるくらいなのだが、まあその種類の多いこと、まあその内容の似通ったこと、タイトルと中身をすり替えても取り立てて違和感はなさそうである。新聞なんかだとそういうわけにはいかない。朝日と読売を続けて読むと、とても同じ国の新聞とは思えない日もあって、良くも悪くもそれがマスメディア本来の姿という気はするのだが。
 さて、書棚に並んだ雑誌を眺めてみると、more、with、very、sweet、story、style、spring、grace、cosmopolitan、vogue、bazaar、と英語のタイトルがずらりと並んでいる。比率でいうと、およそ4割というところだろうか。
 次に多いのがイタリア語。まず男性雑誌のuomo(ウオモ)、これは「男」のことだ。ちょい悪だなんだとイモくさいことを騒いでいる雑誌である。brio(ブリオ)、これは「活気」。女性誌のoggi(オッジ)は「今日」、domani(ドマーニ)は「明日」、grazia(グラツィア)は「優雅」、voce(ヴォーチェ)は「声」。
 フランス語も負けていない。25ans(ヴァンサンカン)、これは25歳である。vingtaine(ヴァンテーヌ)、これも二十歳くらいを指す言葉だ。それから有名なelle、これは「彼女」、英語のsheにあたる。crea(クレア)はcreation(クレアシオン:創造)の略だそうだ。
 めずらしいところだと、spur(シュプール)はドイツ語で「スキーの滑ったあと」を意味する。frau(フラウ)もドイツ語で「女性」のことだ。baila(バイラ)はスペイン語で「踊ろう!」。esse(エッセ)はラテン語で「存在」、英語だとbeingにあたる。non-no(ノンノ)はアイヌ語で「花」のこと。さすが長寿雑誌、語感のセンスがいい。
 造語の類いもある。CanCam(キャンキャン)は助動詞can+campus(キャンパス)。なんというか、80年代チックなネーミングであるが、今でも女性雑誌の売り上げ第一位なのだそうだ。JJ(ジェイジェイ)はJyosei Jishinの頭文字をとったとか。an・an(アンアン)は公募で決まったタイトルで、モスクワ動物園のパンダの名前。変わり種だと結婚情報誌のゼクシィ。これは性染色体のXYをもじってつけたという。BOAO(ボアオ)という女性誌は血液型を示しているそうだ。だから、何だ。とは思わない人がそういう雑誌を購入するのだろう。

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2007年09月08日

日記: きっとかわいい女の子さ

 つちふまずの真ん中を蚊に刺されてしまった。途轍もなくかゆいので棚のへりやなんかに押し当ててごりごりするのだけれど、痛いのと気持いいのとで、どういうわけかおしっこにいきたくなる。あるいはそういうツボでもあるんだろうか。とにかくつちふまずは蚊に刺されたくないベスト3に入る。残りの二つは、足の指の折れるところ、踵とくるぶしの間(内側)のくぼみ一帯。要は足首から下は最悪ということなんだけど、よく刺されるんだ、これが。
 何年ぶりかでブランキー・ジェット・シティを聴いた。彼らの現在についてはよく知らないし、あまり興味もないのだけれど、あのサウンドはやはり唯一無二、一時代を築くバンドであったなあと改めて思った。歌でもギターでもドラムでも、聴いてすぐにそれとわかるところがすごい。どの分野でもそうだが、オリジナリティがあるというのはそういうことだ。シャネルの服はあのロゴがなくてもシャネルの服とわかるし、マクドナルドは一口食べれば「ああ、この味ね」とわかる。
 そういうオリジナリティをどうやって獲得するのか、ものづくりに興味のある人間には悩ましい問題だが、最近「拒まない」というスタンスが重要だと感じるようになった。とりわけ若いうちは、あれは嫌いこれは最低、と他を否定することで自分を純化できる気がするものだが、結局それは自分の度量を限定しているのであって、となるとなかなか自由な着想は得られなくなる。口で言うと簡単に響くが、他のオリジナリティを素晴らしいと評価するのは案外難しい。勇気と自信がなければできないことだと思う。
 夜は客人を交えてホームパーティ。久しぶりに牛をたらふく食らう。
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カタカナ: ビリヤード billiard

 初めてビリヤード場に行ったのは16の時。当時は新宿に住んでいたので、学校帰りに東口のビリヤード場に寄ったりして大人気分を満喫していた。しかしながらコーチがいるわけでなし、見よう見まねで棒を振り回していただけなので、ちっとも上達しなかった。以来、年に一度くらいその気になって興じるのだが、幸い私の周囲にはビリヤードに凝る人はいないので、下手同士そこそこ楽しめる。
 ビリヤードの語源は仏語のbille(玉、ビー玉)、15世紀にフランス・イギリス両国で始まったのがその起源と言われている。日本に持ち込まれたのは1850年、オランダ人が出島で興じたのが最初だとか。その後時を経て1980年代後半、映画『ハスラー2』の影響で日本に空前のビリヤードブームが訪れる。折しもバブル期と重なったこともあって街には数多くのプールバーが誕生したが、ブーム消滅と共にそのほとんどは潰れたか、鞍替えしたか、今ではプールバーという言葉自体がセピア色だ。お立ち台やソバージュなんかと同じ類いだ。時々行く渋谷の東口会館は、場所柄なのかいつもそこそこ混んでいるけれど、ビリヤード人口はボーリングの十分の一にも満たないのが現状ではないだろうか。
 ところで、プールバーは和製英語である。正しくはプールホール、プールルーム、という。The facesの『玉突きリチャード』の原題は「pool hall Richard」だった。ビリヤード台をプールと呼ぶのは、台がプールみたいだからではなく、ポケットに玉が溜まるという意から。また、プロのビリヤード選手をハスラー(hustler)というが、ハッスル(hustle)にはそもそも「不正手段で金儲けをする」という意味があり、ビリヤード賭博で儲ける人をハスラーと呼んだわけだ。不良のやるゲーム、という悪しき認識はこのあたりから来ているのだろう。
 日本で主流なのはナインボールというゲーム。1番から9番までのボールを番号の若い順に落としていって、最終的に9番を落とした人が勝者となる。うち8個まで落としていても最後をミスすれば相手の勝ちだし、反対に9番さえ落とせばいいのだからまぐれ幸いも十分あり得る。的玉だけでなく手玉もポケットに落としてしまう(スクラッチという)初心者には縁遠い話だが、ボールを落としたあとの手玉の位置を計算して突けるようになると、ゲームは俄然おもしろくなる。1番から9番までをノーミスで落とすことをマスワリというが、これを達成するのがビリヤード愛好家たちの目標のひとつでもある。スコアシートのマスを割るようなマークで表記するため、この名がついた。英語ではbreak run through。ちょっと格好いい。

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2007年09月05日

日記: 覚えてるんです

 このところ、トマトソース作りに凝っている。なんのことはない、炒めたタマネギと一緒にざく切りにしたトマトを煮込むだけなのだが、これが実に便利である。パスタソースにしてもよし、市販のピザ生地に塗ってアンチョビとマッシュルームをトッピングして焼いてもいいし、縦に切った茄子に塗ってその上からチーズとパン粉をかけてオーブンで焼くのもよい(これ、ほんと、美味しい)。冷蔵庫で一週間は保つし、市販のソースのように混ざり気がないので味のあたりも柔らかい。
 ところで話はまったく変わるが、私は記憶力がいい。平常時はまあ人並みなのだが、飲んでいる時の記憶力は象並みである。人の服装や髪型なんかはあまり覚えていないが、誰それが何を言っただのどんな表情をしていただの、そういうことはビデオカメラを回したみたいによく覚えている。
 昔はそれでよく哀しい思いをした。私は全部覚えているのに、相手は一切合切忘れていて、つまりそれは私がとるに足らない人間だから忘却の彼方に押しやられたのだ、と肩を落とすわけだ。むろん多分にそういう現実もあったと思う、でも経験を積むうちに忘れっぽい体質の人もいることがわかってきた。また同じ話かよ、とか、その質問三度目なんですけど、と思いながら初めてみたいな顔で相槌を打てるようになった。相手のことをあまりばっちり覚えていて気があると勘違いされてもなんなので(一度もないけど)、忘れたふりもできるようになった。心の余裕というやつだ。
 とはいえ、他人ばかりでなく自分のことも覚えているわけだから、ハッスルした翌日はひどい。恥辱死しそうな勢いである。記憶力がよくても、抑制が効くわけではないのだ。上手くいかない。
 ちなみに家人は記憶に難のあるタイプ、いや、その言い方は語弊があるな、家人は過去に縛られないタイプである。あの時ああだったよね、と言っても「……忘れた」とか「……何だっけ」とか、春の日の縁側のような感じで、同じ釜の飯を食っていても別の星の人なのだなあと思う。
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カタカナ: ビール vol.2 beer

 引き続き、ビールの話。
 ビールは酵母の種類によって二つに大別することができる。
 ひとつは下面発酵酵母のビール。低温(10℃以下)で長時間かけて発酵させて、最終的に酵母が下面に沈み込むのでこう呼ばれる。貯蔵ビール、ラガーとも言われる。ラガー(lager)とは英語で「貯蔵、倉庫」の意、ドイツ語のlargenが語源だ。発祥地はドイツのバイエルン、さっぱりとしてきれのよい飲み口が特長である。日本のビールはもちろん、現在世界で生産されるビールの約9割がこのラガータイプなのだが、実はその誕生は19世紀と歴史が浅く(冷蔵庫の発明以降ということ)、ビールとしては新参者である。
 それ以前のビールは上面発酵酵母を使っていた。常温(20℃)で短時間発酵させて、炭酸ガスをたくさん出して、発酵終了時には酵母が上面に浮き上がる。下面発酵よりも製法が簡単だとか。別名、エール(ale)とも呼ばれ、イギリス、ベルギー、オランダ、などでは現在でも根強い人気がある。味やこくが個性的で多種多様。
 補足をすると、エールは「苦い」という古英語で、「麦酒」を示す言葉としてはビールよりも古い。その昔はホップを入れた腐りにくい麦酒をビール、ホップなしをエール、と区別していたようだが、そのうちエールにもホップを入れるようになり、ビ−ルとエールの質的な区別はなくなった。現在の通例では、エールといえば上面発酵ビール全般を指すようだ。
 さて、ひとえにロックといっても、ハードロック、グラムロック、パンクロック、と様々な流儀があるように、ビールにもスタイルがあって、それぞれ特有の味や香りを持っている。さしずめ上面発酵/下面発酵の区別はブリティッシュ/アメリカンの区別といったところ、ほとんどのスタイルがそのどちらかに属すことになる。そして淡色/中等色/濃色の色合いでさらに分類できるのだが、これはブルーズの影響の濃淡に似ている。話が余計ややこしいか。
 日本のビールの多くはピルスナー(pilsner)というスタイルで、これは下面発酵・淡色に分類される。チェコのピルゼン地方の発祥。レストランで時々見かける「琥珀の時間」という褐色ビールがあるが、これはドュンケル(dunkel)というスタイルで、下面発酵・濃色ということになる。
 上面発酵・淡色で有名なのは南ドイツ発祥のヴァイツェン(Weizen)。これはドイツ語で「小麦」の意、その名の通り原材料に小麦を使用していて、バナナの香りがするフルーティーな仕上がりになっている。銀河高原ビールはこのスタイル。よく耳にするスタウト(stout)は上面発酵・濃色のビールである。「強い、どっしりとした」という意で、元祖はかの有名なアイルランドのギネス。トラピストもこの分類だ。
 その他、ペールエール、アンバーエール、アルト、ポーターなど、数十種に及ぶスタイルがあるが、最近急増している日本の地ビールはエールタイプのスタイルを採用している場合が多く、勝木さんの店に行けば一癖も二癖もある日本のエールが何種類も飲めるというわけ。

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2007年09月03日

日記: 話したい

 三週間ぶりにジムへ行ったら、まことにへろへろ。全身が左の薬指のように利かん坊だった。心肺機能もすこぶる衰えていて、ぜえぜえいいながらなんとかついていく。週に一度のクラスだが、それなりの鍛錬になっていたことが実感できた。
 このように、止めて初めてその効果が実感できるものは多い。すぐに上達しないものはおしなべてそうだとも言える。久しぶりに楽器に触って、あまりにも弾けなくて落ち込んだ経験のある人は多いのではないか。毎日弾いたってちっとも上手くならないのに止めた途端に下手になる、ということは現状維持にエネルギーの大半を費やしているわけで、つまり、一週間に一日7時間トレーニングするよりは、毎日1時間計7時間するほうが効率はよいことになる。なるほど。まあそういう考え方もあるという話。
 ところで、実はまだ生きている祖母だが、とうとう母のことも私のことも認識しなくなってしまった。厳密に言うと、認識しているのかもしれないが、反応がないので確認がとれないという意。大声で話しかけても、歌を歌っても、いないいないばあをしても、無反応。おそらく全裸で踊っても駄目だろう。大嫌いな猫を連れてきて脅したらどうか、と母は言っていたが、もうあとは大地震とか大洪水とか原子爆弾とか、天変地異しか呼び戻せる手段はないかもしれない。ああ、おばあちゃんはどこへ行ってしまったんでしょう。生きて、そこで呼吸しているのに。とはいえ嘆いていても仕方ないので、言葉や表情以外のコミュニケーションツールを模索中。チャネリングでもオーラソーマでも何でもいい、私はおばあちゃんと話したい。
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投稿者 shiori : 12:27 | コメント (0) | トラックバック (0)

カタカナ: ビール vol.1 beer

 そもそもビールとは、古英語で「飲むもの」という意味。漢字で麦酒と綴るように、麦から作られる酒である。その誕生は今から5000年前、メソポタミア地方のシュメール人が作ったと言われている。その後、エジプトを経てヨーロッパへ伝わった。日本に持ち込んだのはオランダの商船、18世紀前半、ちょうど忠臣蔵の頃のことである。
 国別一人当たり消費量を比較すると、日本は現在30位。1位はチェコで日本の3倍、2位はアイルランド、3位はドイツ、となっている。都道府県別一人当たり消費量を見ると、1位東京、3位大阪、は順当だとしても、2位高知、というのが愉快である。さすがイゴッソとハチキンの県。
 さて、ビールの原材料でまず重要なのは麦芽(malt:モルト)である。通常使用されるのは二条大麦(ビール麦)。六条大麦や小麦、ライ麦を混ぜて作る種類もあるが、いずれにしても麦を水に浸して発芽させ、麦芽を作るところからビール醸造が始まる。乾かし方や加熱の仕方などによって麦芽は数十もの種類に分けられるが、どの麦芽を使うかでビールの色や味が大きく変化する。黒ビールには焦がして黒くした麦芽を、色の淡いピルスナーには低温加熱の麦芽を、といった具合。
 次にホップである。これはクワ科の植物で、形状は緑の小さな松ぼっくりといったところ。ホップを入れることでビールに香りと苦みが加わる。余計なタンパク質を分解してビールに透明感を与えたり、泡立ちをよくしたり、殺菌作用があったり、要は縁の下の力持ちというわけだ。チェコやドイツの最高級ホップはアロマホップ、ファインアロマホップと呼ばれ、他と区別される。
 それから水。いわずもがな、水が美味しければビールも美味しいわけだが、一般的には濃い色のビールは硬水、薄い色のビールは軟水で作られているようだ。
 基本的にこの3つのみで作られたビールは、麦の香り豊かで深い味わいに仕上がる。日本のものでいうと、プレミアムモルツ、エビスビール、ハートランドビールの類い、それから麦芽100%を謳うモルツ、キリン・ザ・ゴールドなど。
 一方のキリンラガー、一番搾り、スーパードライ、サッポロ黒ラベル、などには、米、コーンスターチ、といった副原料が使われていて、前者よりもすっきりとした飲み口になっている。どちらがいいかは好みの問題だが、ベルギービールのヒューガルデンなどはオレンジピールやコリアンダーが副原料として使用されていて、副原料によってホップでは出せない香りを楽しめるとも言える。
 酒税法によれば、この副原料が麦芽重量の50%を超えると、発泡酒に分類される。近年誕生した第三のビールというのは、ビール的な味をしているというだけで、ビールとはまったく別の原材料(エンドウ豆とか大豆とか)および製法で作られている。いうなれば、ビールのレプリカである。
 次回はビールの種類について。(筆が乗るな……)

投稿者 shiori : 12:25 | コメント (4) | トラックバック (0)