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2006年11月30日

日記: からっぽ

 通信販売のカタログを見ていて、男性は大変だなと思うのである。冬を彩るお洒落、なんていうタイトルで暖かそうなコ−トやマフラーを紹介する頁があった。シニア向け商品のためモデルも50代、あらぬ方向に視線を留めたり、殺菌されたような笑みを浮かべてポーズを取っている。男性も女性も嫌味のない整った顔をしていて、当然だけれど、スタイルもいい。かといって俳優のように個性的な顔をしているわけではない。服の宣伝なのだから顔が目立ってしまってはいけない、頁を閉じたはなから忘れてしまうくらい匿名的な顔でなくてはいけない。彼らは実に選び抜かれた人たちなのだ。
 しかし彼らの顔を眺めていて、女性は構わない、女の器量というのはそれだけで値千金、美しければ話が済んでしまうところがあるけれど、男性の場合はそうもいかない。若ければまだよい。若さというのも女の色と同様、それだけでものを言うからだ。しかし、還暦も近づいた二枚目が、からっぽの顔をしているほど哀しいことはない。年老いた男はただでさえもの哀しいのに、なんだか見てはいけないものを見てしまったような、いたたまれない気持になる。
 女性は顔を作り慣れているし、男性よりもずっとしたたかだから、わざとからっぽの顔を作るなんてことも悪びれずできてしまうけれど、男は女よりうんと正直だから、何かを考えていればそういう顔になるし、何も考えていなければそういう顔になる。今まで過ごした時間がそのまま顔になるのだ。大変だなと思うわけである。

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2006年11月29日

日記: のりしろ

 母が帰って来たので、一週間ぶりに自宅に戻る。祖母から解放されて、少し嬉しい。介護といって大層なことをするわけではないけれど、やはり最低1時間に一度、食事の際には10分に一度は用事があるので、そこで作業は中断される。いったん何かをやり始めると時空間を忘れる傾向にあるので、タイマーをかける。りんりんと鳴りました、はいはいと用事を済ませて、またすぐにやりかけの作業に戻る。集中する。タイマーが鳴る。用事を済ませてまた戻る。
 しかし残念ながらそう上手くはいかない。例えば歌の稽古をしていて「うさぎおいしかのやま こぶ」というところでタイマーが鳴っておむつを交換しました、戻ってすぐに「なつりしかのかわ」とはならず、はあ、おむつ替えた替えた、とソファにどさっと腰かけ、そこらにある雑誌を見るともなく眺めて、ちょっと一杯お茶を飲んだりして、じゃあぼちぼち戻りますか、とピアノに向かってもう一度頭から「うさぎおいし」とやるわけである。極めて非合理的なのである。
 まあこれは大袈裟な例ではあるけれど、寝たきり老人や乳飲み子を抱えている人は多かれ少なかれそういうものだと思う。相手に情があればあるだけ、切り替えが難しくなる。のりしろがないと次に進めない。
 ただし、のりしろの塩梅は個人の裁量だ。最低限の分量で済ます人もいれば、私のようにむやみやたらにだだっ広いもいる。こうやって自宅に戻って来て、はあ帰って来た、やれやれ、と一服するくらいはよしとしよう、しかしいっこうに何かを始めるわけでなく、窓の外を眺めたり寝転んで挙句うとうとしたり、そうするうちに日が暮れてしまって、今日という日を酒で洗い流そうとワインを飲み始めたりして、問題は介護ではなく私のたちにあったと思い知ることになる。

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2006年11月28日

日記: わりくう人形

 先日友人が実家に遊びに来た時に、人形棚をしげしげと見上げて「これは誰の趣味なの?」と聞いた。そうなのである、我が家には実に50体近くの人形があり、豆粒ほどの陶器製の動物なんかを合わせると100体はあるかしれない。それを階段の踊り場や梁に並べたり、重厚な人形ケースを設置したりして飾ってある。たいがいは父が海外出張に出かけて買って来たもの、マトリョーシカやロンドンの兵隊さん、南方の土人といった類いが所狭しと並んでいる。いかにも人形好きのふうである。父は「今度はこんな人形を買った」と嬉しそうに箱を開けるし、母はそれを大事そうに人形棚に並べていたし、父と母は人形が好きなのだと私が思うのは当然である。改めて問うようなことではない。
 それが数年前のことである。ある時不意に「人形のどこが好きなの?」と母に聞いてみたのである。すると意外な答えが返って来た。「ちっとも好きじゃないわよ、むしろ気持悪いくらい、パパが好きだから飾ってるの」
 へえ、と驚いた。それで今度は父に「人形、好きだね」と棚を指差して聞くと「いいや、ママが喜ぶから買ってくるだけで、僕は興味ないの本当は」と言うのだった。
 可笑しかった。夫婦のように、どれだけ仲睦まじく会話を重ねていても死角はあるのだ。理解と誤解は紙一重、我々の認識はその二つが一緒くたになっているのであって、「正しい」と感じていても正しくない場合は多分にある。人は自分にとっておさまりのよい認識を作りあげるもの、しかし生活に関していえばそれで十分だ。正しいも何もない、おさまりがよければそれが平穏なのだから。
 それで私は勇んで(言わずに済ます辛抱はない)、父がこんなことを言っていたと母に伝えると「こんなにたまちゃった後に気付いてもねえ」とあっさりした返答に拍子抜けした。
 確かに今更どうでもよいのだろう。100体の人形を前に理解も誤解もない。誤解が解けたところで捨てるわけにもいかないし、はたまた人形を好きになるわけでもないから、取り出して眺めるということもない。わりを食った人形たちは相変わらず棚の中にでんと鎮座するばかり、時折客人に「実は誰の趣味でもないんですよ」と説明されたりして、気の毒なことだと思ったりする。と書きながら、この話は以前に書いたような既視感に襲われたのだけれど、どうだったでしょう。

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2006年11月27日

日記: 海老フライ

 海老フライが大好きだ。天婦羅も好きだけれど、やはり卵とパン粉の入った黄金色の衣がよい。自分で作るとなると色々と難儀するので(まず捨て油保存容器を買わなくてはいけない)、食べたくなったら母に作ってもらうか、外で買って来ることにしている。
 大変都合のよい店も見つけた。横浜そごう地下二階の「串鮮」という串揚げ屋なのだが、もともと大阪が本店、東京進出を目指して上京してきたようだ。ショーケースには目移りするほど様々な串揚げが並んでいて、おまけに値段は大阪価格、安くて美味しい。だから多くのテナントの中でもひときわ繁盛している。そこの天然エビ串揚げ(150円)が絶品なのである。
 祖母が元気だった頃は本当によく食べた。天然エビ15本ください、などと言って店員に唖然とされたこともある。あるいは祖母の遺伝なのだろう、彼女も海老を偏愛するくちで、入れ墨を彫るなら海老の絵がいいとまで言いのけるほど、口の周りをぎとぎとにして一緒に海老フライを食したものである。
 甘鯛やふぐ、いか、ほたてなどの魚介類やアスパラガス、蓮根、玉葱、南瓜などの野菜、そして牛肉に豚肉、ブラブラブラ、その他の食材も食べたくなってついつい買い過ぎてしまう。でも困りはしない。翌日のうどんに投入してもよし、卵でとじて丼ものにするもよし、もう揚げ物は最高だ。
 それで今日は昼間からそんなことばかり考えていて、そごうまで買いに行こうかどうしようか、でも冷たい雨に心が折れてしまって、それでも食べたい気持は捨てきれず、いきおい近所のとんかつ屋で海老フライを買ってお茶を濁したのだった。初志半貫徹というところか。

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2006年11月26日

日記: 宿酔

1、同じなれど

 酒豪伝説というウコン錠剤も昨晩の酒量には勝てなかったようだ。頭痛と倦怠感で、ひもすがらのそのそ過ごす。体質だと思うのだけれど、飲み過ぎるとあまり眠れない。昨晩寝たのは3時を回っていたはずだから10時くらいまで熟睡したってよいものを、朝7時には目覚めてまんじりとせず、大昔にあった不愉快な出来事や自分のこっぱずかしい発言などが芋づる式に思い出されて、いっそうひどい気分になる。
 そういえば、太宰の話ばかりだけれど、先日『母』という短編を読んで思わず笑ってしまった。泥酔して夜中にふと目を覚ました主人公のセリフである。
「……というあたりから後悔がはじまり、身の行末も心細く胸がどきどきして来て、突然、二十年も昔の自分の奇妙にキザな振舞いの一つが、前後と何の連関も無く、色あざやかに浮かんで来て、きゃっと叫びたいくらいのたまらない気持になり、いかん!つまらん!などと低く口に出して言ってみたりして、床の中で輾転としているのである」
 そういうことなのである。しかし大先生と同じだ!と喜んだところで、私のやりきれない気持はいかんともしがたい。小説ではその後、主人公は隣室の興味深い話し声を耳にすることになるのだけれど、私の場合、家人の安らかな寝息が聞こえるだけであって、おもしろくもなんともない。腹いせに腕をつねってみると「ぷすっ、ぷすっ、ぷすっ」と妙な音を出して抵抗していた。少しだけれど、憂さが晴れた。

2、湯豆腐

 そういう日の食事は湯豆腐に限る。水に昆布を放り込み待つこと1時間、白菜と葱の青い部分を入れ火にかける。煮立ったら鶏肉を入れ、最後に白葱と豆腐を浮かべておしまい、どんなぶきっちょでも出来る料理である。だし醤油をまわしかけ、かぼすかすだちをちゅっとしぼって、湯気の立ち上るうちに頂く。美味しい。荒んだ胃腸をやんわり包み込み、再び酒が飲めそうな心地になる。そして実際に飲んでしまったりする危険な料理である。
 ポイントは美味しいお豆腐を買うことだ。冷や奴は少々不味いものでもなんとかなるが、湯豆腐の場合そうはいかない。一丁100円くらいのものだと防腐剤やらくず大豆ばかりが匂い立ち、まるで新聞紙を食べているよう、できれば200円以上のものを求めたし。栄養や手軽さを考慮すれば決して高い買い物ではないですぜ、奥さん。

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2006年11月25日

日記: full

1、阿弥陀くじ

 空きの出た駐輪場の権利をかけてくじをひく。もちろんはずれる。こういうところで稀少の運気を使ってしまわなくてよかった、といつものように負け惜しむ。すると必ず「確率は偏るものだから、その考えは間違えている」と家人が指摘するのだけれど、何度説明されても意味が理解できない。したり顔で熱心に説明してくれるので、ふむふむと神妙に聞くけれど、まあ途中から聞いてないのであって、頭と口は別々に動くのだなあなどと思いもって「なるほど」と相槌を打つ。家人も「うん」と満足げである。円満で何よりである。くじの線の引き方が阿弥陀の光背に似て放射状であったためそういう名がついた、と広辞苑が言っていた。

2、整理券

 近所のスーパーが午前10時から11時に特売整理券を配布するというので取りに行く。その券があれば12時までなら全品3割引でお買い物できますという。なんか変である。どうして「10時から12時までは3割引」ではいけないのだろう。整理券を配るほど混んでいないし、寒空の下エプロン姿で券を配るおじさんも気の毒である。整理券という響きが客寄せになると思ってのことなのだろうか。確かに繁盛しているようで聞こえはよいけれど、実際に赴けば見かけ倒しは一目瞭然、余計にイメージダウンなのではないか。よくわからない。しかし貴重な券であることには変わりない。黒毛和牛4等級を1,000円引きで入手できた。滅多に買わないビーフ、今晩は来客があるのだ。

3、totally drunk

 XとYが来訪。
  ビール 350ml×3
  ブルゴーニュ スパークリング
  キャンティ・クラシコ・レゼルヴァ
  サンテステフ コス・デストゥルネル(1996)
  ジェイコブズクリーク・リザーヴ・シラーズ
  ランブラン シャブリ
  ビール 500ml×3
 を4人で飲み干す。大虎になる。

4、上の空

 調子の悪い時に村上春樹を読むとさらに調子が悪くなる、とXが言うので「調子が悪いとどうなるのですか」と質問すると「さらに上の空になる」とのことだった。最近、上の空について興味があったので大変有意義な会話だった。上の空にも二種類ある。案件があるから上の空、なのか、案件もないのに上の空、なのか、私が気になるのはむろん後者のほうである。すべての事象が春の小川のようにさらさらと流れて行き、自分だけ異なった時間軸で動いている感じ、あのぽっかりした感覚は少なくとも20代中頃にはなかった。上の空のあなたに何があるのか、私はまだ知らない。

5、you don't know Bordeaux

 ボルドーは最低2時間はデキャンタージュするべきだった。味に凄みが出て来た頃にはもうグラスの残りはわずか、悔しかった。それにしてもどうしてあんなに美味しいのだろう。世界は本当に広くて深い。最近子供がさっさと人生を終わらせてしまうけれど、今眺めている世界がすべてではないこと、自分は世界についてほんの少ししか知らないことを教えてあげなくてはいけない。それが大人の役目なのだ。

6、塩梅

 隣室で寝ている祖母の様子をちょくちょく覗く。心もち微笑んだ目で天井を見上げていて、声をかけるとほやっと笑う。そういう人のことはどれだけ酩酊していても忘れるわけにはいかない。でも祖母のために酒を加減したりもしない。べろべろのままおむつ交換すればよい。介護というのは責任と自由の塩梅が重要である。

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2006年11月19日

日記: not bored

 めっきりテレビを観なくなってしまった。必ず観るのはNHKの朝ドラ、時間が合えば観るのは上沼恵美子のおしゃべりクッキングと銭金、あとはニュースとサッカーとNHKのドキュメントくらいのものである。ハイビジョンの特集番組は食指が動くのだけれど、映らないのでどうしようもない。どうしても観たいものでも観なければ観ないで済むのがテレビである。
 その昔は連続ドラマが大好きだった。古いところで言えば『男女七人〜』とか『ニューヨーク〜』とか、子供のくせにstickyな恋愛ものが好きだったので、キンパチとか刑事ものはあまり観た記憶がない。『あすなろ白書』だの『ロンバケ』だのフジテレビの月9枠もずいぶん観たし、『高校教師』だの『愛してると言ってくれ』だのTBSの金曜ドラマもかれこれ観た。今だって画期的なドラマがあれば観たいのだけれど、頭打ちというか、今まで以上の作品はほとんどない。だから面白くないので観なくなった。
 かといって空いた時間を有効利用しているわけではない。連ドラ鑑賞に勝るとも劣らない無為なる時間を過ごすだけである。本を眺めたり、家人相手に無駄口を叩くだけのことである。ただ無為だからといって退屈なわけではない。むしろ何かを為そうとしている時のほうが退屈だったりするのであって、つまり、重要なのは為す為さないではなく、退屈かどうかなのではないかと。何もしない言い訳ではございませんことよ。
 実家のビデオが壊れたので、昨日アマゾンでVHS+DVDレコーダを注文したら、なんと今朝には届いていた。この働き者め。母に一通りの使い方を説明して最後に、まあでもあなたには無理かもねえ、とはっぱをかけておいた。彼女は60近くなってもそういう呪文の通用する希有な人である。

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2006年11月17日

日記: Are you Rocky?

「ロッキーさんですか」という電話がよくかかってくる。「ロッキーさんへ」というFAXも時々入る。当然だけれど、私はロッキーではないので戸惑うことになる。先方も私がロッキーではないことに戸惑っている。電話番号を読み上げてあなたはロッキーではないのかと不審そうに問い返す。確かにその番号だけれど私はロッキーではないと我慢強く答える。先方は明らかに落胆した様子で電話を切る。こちらも忌々しくなって舌打ちしたりする。
 それで、ロッキーて何、という話なのだが、これがなかなか難しい。予測しにくいのである。ある時は名古屋の中学の先生から「体操服の件でお電話しました」という留守電が入っていた。ある時は女性から「こんな夜分にお電話するのもなんですから明朝連絡待ってます」というFAXが入っていた。「18日までに返せないのだったらそれなりの措置を講ずる」というのもあった。何だかさっぱりわからない。ロッキーなどという勇ましい名を名乗るならせめて借金は返済してほしい。間違い電話はただでさえ不快なのに、そら恐ろしいなんて勘弁してほしい。
 それでも、押し違いや伝え違い、数字のことなので間違い電話を根絶するのは不可能だろう。自分も時々間違えるのだし、大目に見なくてはという気持がある。でもいたずら電話は別だ。あれはひどい。受話器の向こうで知らない男にいやらしいことを言われたりすると、その日一日気分が浮かない。着信拒否ができるようになってからはずいぶん減ったけれど、以前は結構悩まされた。
 そういえば今から数年前、こんなことがった。携帯電話を落とした時のこと、それが運悪く変質者に拾われてしまった。どうしてわかったかというと、女の友人全員に同じような不愉快な電話がかかってきたのだ。律儀なことに、アドレス帳を順番にかけていったのだ。うんこみたいな男である。気弱だったのか、一度凄んだらかかってこなくなったけれど、あのときは本当に申し訳ないことをした。それでも祖母の家にまでかけていたのにはちょっと笑った。「ほうよ、おしっこ飲ませてじゃのゆうて妙な電話がかかってきたんよ、ちいと頭がおかしいのじゃろぞい」とのことだった。年齢を知ったら男も仰天しただろう。
 その祖母だが、この一ヶ月でほとんど喋らなくなってしまった。はい、おはよう、さいなら、くらいしか口にしない。淋しい限りである。それでもこちらは今までと同じように話しかけることにしている。表情を見ていると、話の内容は理解している様子だからだ。その証拠に時々的を得たことも言う。今日も「おばあちゃん、90年生きてるってすごいね」と改まって驚くと「ほうよ、ばかみたいに」と捨て鉢な顔で答えていた。祖母が生きていて、私は嬉しい。

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2006年11月14日

日記: read again

 きっかけは何だったのか忘れてしまったけれど、このところ太宰治ばかり読んでいる。16の頃に読んで以来のことだ。現代国語の授業で、銘々が一人の作家を研究して発表するという課題が与えられたのだが、私はたまたま太宰治だった。仲の良い友人は梅崎春生だの若山牧水だのいうしぶいのが当たって文句を言っていたのを覚えている。アルコール依存症の詩人の心境なんか犬に食われちまえというのが健全な女子高生というものである。
 それで私は『富嶽百景』の作品解説のようなことをやって、最後のキメが最高に格好良いと思う、などとナマを言ったら「どこが格好いいんですか、自分に酔ってるだけじゃないですか」とこれまたナマを言われてしまって、しどろもどろになった。悔しかった。
 ちなみに『富嶽百景』の最後はこうである。
「その明くる日に、山を下りた。まず、甲府の安宿に一泊して、そのあくる朝、安宿の廊下の汚い欄干によりかかり、富士を見ると、甲府の富士は、山々のうしろから、三分の一ほど顔を出している。酸漿(ほおずき)に似ていた。」
 酸漿の赤い葉を少し割いて実の頭が覗いたときのはっとする心地、清々しいと同時にちょっと小癪で、それゆえにやるせない感じをずばりと言い当てて、そんな表現はなかなかできるものではないです、そういう感じがわからないようではあなたはきっと男性にはもてないでしょう、と今であれば言ってやるのだけれど、当時の私がどこまで理解していたかは怪しいもので、太宰という作家はわからなくてもわかったような気にさせてくれる才があると改めて感心するのだった。
 それにしても太宰治は狂ったように文章が上手い。今回一連の短編作品を読み返してそう思った。隙もないし、無駄もない。イントロとアウトロがここまでキマるのは太宰とベートーベンくらいである。16の時はそれこそ憑かれたように読んでいて、太宰の戦略にまんまとはまりうっとりと目を細めたものだけれど、32になってさすがにそれはない。もっと冷静だ。だから、なるほどそういう料簡ですかとほくそ笑む楽しみがあり、魅力的なことに変わりない。『富嶽百景』を読み返しながら、16の私は本当に若くて馬鹿だったとちょっといい気分になった。これもオサムマジックかもしれない。

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2006年11月11日

日記: 風邪っぴき

 初対面の奥様同士の集いありて、ジョナサンでハンバーグランチ。こういう時に「私はファミリィレストランというものを嫌悪していまして、できれば蕎麦、そうですね天ざるなどを頂きたい、このように不味いものに高い金払うなら100円のハンバーガーのほうがまだ愛嬌がありませんかそうではありませんか」と心の内を吐露せずに、にこやかな笑顔のまま切れ味の鈍いナイフとフォークで成形肉をぎしぎしちぎって口に押し込む、そういうのを社会性と呼ぶのかしらん。
 そういう減らず口ばかり叩いていることとは関係ないと思うのだけれど(願うのだけれど)、風邪をひいてしまった。一年半ぶりのことである。出がけに飲んだ風邪薬が昼過ぎになって効いてきて頭がぐわんぐわん、どうもイブプロフェンというケミカル物質がものをいうようで、ほとんど足がないような状態で渋谷の百貨店をうろつく。気分は悪くない。食器売り場、雑貨コーナー、文房具屋をあてどもなく徘徊したのち、食料品売場で鶏の唐揚げを200g買って帰宅した。無性に揚げ物が食べたくなったのだ。何をする気も起きず、布団にもぐりこんでPS2のコントローラを握ったまま、NHKでやっていた全日本体操大会の中継を眺める。へたくそだった。知りたくもないことを知ってしまった。知りたいことは知らぬままなのに。ウソ、ウソ、知りたいことなんて本当はないの。今知っているぶんで十分なの。嘘のつき方も、男の子との遊び方も、お金の儲け方も、そこそこわきまえてそこそこ楽しくそこそこ憂鬱に、望みなんかないわ、今はただ無為に、白痴のように、よだれなんか垂らして、ほら、笑ってみたら幸せよ、うふふふふ、楽しくないのに楽しいなんて、あはははは、などとやっていたら大ちゃんが帰ってきて正気に戻った。
 家族は大事、そして健康は大事である。

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2006年11月09日

日記: pick her nose

 ふと祖母の鼻を覗くと琥珀色の糞がこんもり、手があまり動かなくなった彼女、あんなに好きだった鼻ほりも難しくなったようである。片方の穴には管が入っており、もう片方がこんな状態では苦しいに決まっているので撤去に乗り出すのだけれど、人の鼻をほってあげるのはなかなか難しいことに気付いた。塩梅がよくわからないのだ。いきおい祖母も痛がる。仕方ないので薬局に行くと、鼻用ピンセットというのが売っていて驚いた。開きが小さいとか先が丸いなどの工夫がなされている。もちろん赤ちゃん用である。
 祖母の介護をしていて気付いたことだけれど、赤ちゃんグッズは本当に種類も品数も豊富、どこにでも売っていて値段も安い。すべて老人グッズの真逆である。赤ん坊のほうがかわいいのだから当然だ。誰だってもうすぐ死ぬくせに嫌味ばかりいう小汚い人のために散財したくない。最低限のお金と労力を使うのだって精一杯なのだ。
 先日のことである。祖母の太ももに大きなあざが出来ていて、それを見たお風呂屋さんが「これは?」と私に質問した。「知らぬ間に出来ていて」とありのままを答えたのだけれど、その視線はとてもいやらしかった。虐待を疑っているのだ。むろん彼らには虐待を早期に発見して通報するという義務があるので仕方ないけれど、それでも私は嫌な気持になった。疑われたのもしゃくだし、疑われるのが当然なほど虐待が頻繁だという現状にも気が滅入った。業が渦巻ているといえばよいか、介護現場の袋小路感はなかなか迫力がある。
 そう考えると、祖母は本当に幸せな人だ。孫に赤ちゃん用ピンセットで鼻糞をとってもらえるのだ。つまみ出した物体は小指の関節ひとつ分はゆうにあり、思わず溜息がもれた。祖母はしゅうと息を吸い込み、しゅうと吐き出す。こちらの鼻のぬけまでよくなった気がした。

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2006年11月07日

日記: geometry

 一辺の長さがaの正方形ABCDがある。点Aを中心とした半径aの円弧で点Bと点Dを結ぶ。次に点Aの対角である点Cを中心とした半径aの円弧で点Dと点Bを結ぶ。すると、正方形の中に二本の円弧で囲まれた部分ができる。この面積を求めなさい、というのは簡単なので、同じ要領で点Bを中心とした半径aの円弧で点Aと点Cを結び、点Dを中心とした円弧も加えると、正方形の中にはふくらみ気味の四角形PQRSができる。この面積を求めなさい、というのは意外に難しく眉根にしわがよります。解法は複数あり。暇な方はどうぞ。

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2006年11月05日

日記: たんぽ

 日が暮れるのがすっかり早くなってしまった。手元が暗いなと思って時計を見ると、まだ4時過ぎだったりする。これからは冬まっしぐらだ。食い溜めして遠い春にそなえよう、なんて冬眠前の熊のようなことを言うけれど、人間だって冬は出不精になり脂肪も増える。一人あたま1kg増えたとして1億3千万人で13万トンも増える。冬の日本列島は夏よりずいぶん重いのである。なんてのはもちろん口からでまかせで、実のところそれ相応の肉やら野菜やらが消費されているからイーヴンである。これをエネルギーホゾンノホーソクという。アボガドロ?フラクタル?ドモルガン?
 チキンブイヨンで煮込んだら美味しそう、ということで土鍋とIHヒータを買った。お玉杓子と灰汁掬いも買った。父母を招いてきりたんぽ鍋をつついた。地鶏に牛蒡の笹掻きに油揚げ、舞茸椎茸榎茸、水菜を散らしてできあがり、寒空に響き渡れり舌鼓。たんぽ、とは稽古用の槍の頭にくっつける綿製の安全具を指すとのことだ。新米のはまた格別に美味しいどすえ。

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2006年11月04日

日記: SWEET JOAO

 コネで取ってもらった素晴らしい席で、ジョアン・ジルベルトを堪能する。一昨年もその前もそうだったと聞いていたので驚きはしないのだけれど、本当に75分遅れの開演だった。まだ会場に到着していませんだの今ホテルを出ましただのいうアナウンスが流れて結局5,000人の客を75分待たせて登場、ギターを大事にそうに抱えてよぼよぼ歩き(齢70を越えた老人です)ぺこりと頭を下げて「ごめんなさい」といっておもむろにつま弾き歌い始めるジョアン。75分待った甲斐のある演奏を聞かせるのだからさすがである。
 とはいえ遅刻の罪がファンタスティックな演奏で購えるかといえばそうではない。それはそれ、これはこれである。稼ぎは少ないのだけれどセックスは獣みたいにすごい夫(※これはフィクションです)がいたとして、極小の稼ぎをセックスで損失補填できるわけではないのと同じことである、と書いている本人がなんだかよくわからなくなってきたのだけれど、とにかく今度は遅刻しないで頂きたいということです。
 それにしても今夜の演奏は本当にチャーミングだった。足すものも引くものもない完璧な世界。清廉なのに色気があって、朗らかなのにもの哀しくて、夜中の3時と昼の3時が一緒に訪れたような感じがする。そういうのって簡単にできるものではない。

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2006年11月03日

日記: 小袋

 街に出て友人夫婦と食事。馴染みのスペイン料理屋で生ハム、パエリア、小海老のにんにく炒めなど。いついっても必ず満足できる貴重な店である。来年サンティアゴ・デ・コンポステイラの巡礼に出かけるつもりだと店主に伝えると、あそこの魚介は素晴らしい函館なんかは目じゃない、俺は自転車で走破したよ、8月に行くだって?40℃越えるよキチガイにみたいに暑いから気をつけて、パエリアは不味いから食べないほうがよろしい、という情報を頂いた。ほほう。
 ちょっと歌いましょうかということになってカラオケにも行った。私はほぼ横文字の曲しか歌わないという毛唐人びいきだけれど、友人(特に夫のほう)は流行りのJ-POPに詳しいという、まあ大手企業の営業という仕事柄なのでしょう、周囲にはいない趣向の人で、都合コブクロなどと耳にすることになった。それがなかなかおもしろくて、というのはコブクロがおもしろいわけではなくて、友人の歌がなんというかすべてをなぎ倒す竜巻のようで(下手なわけではない)、すこぶる愉快な夕べだった。
 それでコブクロなのだけれど、実は以前に同じイベントに出たことがあって、大きいほうは桜庭みたいな顔だなと思いつつリハを見学していたら、しょっぱなから盛大に鼻にかけた声で「んあ〜〜、んあ〜〜、名もないは〜なに〜は黒田の声もう少しちょうだいんあ〜、ギター下げんあ〜、(突然裏返って)んふ〜うう〜(素早く元に戻って)んあ〜〜」などいうものだから、我がバンドメンバーは皆うつむいて笑いをかみ殺すのに苦心したという経験がある。そういうセンスだから、メジャーとは縁遠いバンドだったわけだが、それにしても、咲くLOVE→桜、というのは大丈夫なんだろうか。上手いこと言ったなどとほくそ笑んだりしたら、月にかわっておしおきよ☆

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