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2005年04月29日

日記: 祖母には初夏がよく似合う

九州から帰ってきてほっと一息つくも束の間
翌日から祖母の具合が悪くなった。吐き気がとまらない、よろよろして歩行も困難に。季節の変わり目だし、前にも同じようなことがあったし、と様子を見ることにしたが、3日目の朝にも容態は変わらなかった。
救急外来に連れて行く。
医者から言われた言葉は「入院してください、脳内出血していますので絶対安静です」だった。しかも血圧が200以上あったらしい。祖母のつらそうな様子に合点がいった。
救急外来にはひっきりなしに人が駆け込んでくるが、ぐったりした赤ん坊を抱えた若い母親、というのが一番ずしりとくる。青ざめた顔は涙でぐしゃぐしゃ、髪をふり乱して、処置の間中、診察室の前をうろうろしている。彼女の姿を見ているだけで、こちらまで気が滅入ってくる。命がうっとうしいぐらい重い。
それに比べると、90のばあさんにまつわるあれこれは淡々としている。本人は、命が切れないので仕方なく生きている、という認識だし、私たち家族も、できれば生きていてほしいけれど、死んでもしょうがない、と思っている。死んでもいいと思っている。
「死んでほしくない」でもなく「死んでしまえ」でもなく「死んでもいい」なのだ。人に対してそんな感情をもったのははじめてだった。
それでも医者は仕事なので、1才でも90才でも、命を同じ重さで扱って処置をする。それは当たり前だけれど、すごいことだ。
結局、祖母が処置室から出てきたのは5時間後。体中に管をつけて、ベッドごと病棟に運ばれるのを見ていると、思わず溜息が出た。
「まだ生きています」というキャプションがぴったりだった。死んでもいいのに、死ねないのだった。

老人は3日寝つくと歩けなくなり、頭もぼけてしまう可能性があります、と最初に医者から説明された。そしてその言葉は実に正しかった。
数日後には、祖母の筋肉はかちこちにかたまり、思うように動かなくなった。話す内容も支離滅裂で、反応も鈍い。自分の名前を聞かれても、うまく答えられない。母は「ついこの前までひとりでお風呂に入って、にこにこ笑っていたのに」と涙ぐんだ。
そんなことばかりいつまでも言うので、「あれができなくなった、これもできなくなった、と点数をつけるような考え方はやめろ」と私は母をなじった。あんな祖母を見て、私だってものを思わないわけがないのに、耳元でがやがや言われたらうるさくて仕方ない。
そういうひとつひとつがたまらない感じだった。
でも、人は慣れる生き物だ。母も私もすぐに、ベッドにそっと横たわる祖母を見慣れて、そういうものだと思えるようになった。
体の左半分は脳内出血のせいで麻痺していて、退院できても車椅子生活だと言われた。それでも、気休めかもしれないが、頭のぼけは一時的なものに思える。その証拠に辛抱強く2時間くらい話しかけていると、勘が戻ってくるらしく、会話が成立するようになる。とんちんかんぶりはかなりのものだけれど。
先日なんて「おばあちゃん、具合はどう?」と話しかけると、
「今朝なあ、この病院の院長さんのにごうさんが男の子を産んだけん、朝からせわしいのよ」と言っていた。へたな芸人よりおもしろい。
そんなわけで、毎日病院通いの日々なのだった。

数日前からはご飯を食べられるようになったので、夕方に行って夕食を食べさせてあげて、面会時間終了の8時までおしゃべりをして(一方的に)帰って来る。昔話をしたり、時には歌を歌ってあげたりもする。鯉のぼりの歌なんかをだ。
すると祖母は口をへの字に結んで、泣くのをこらえる。そして私の手をぎゅっと握りしめる。
「おばあちゃん、私帰るね」と言うと、
「ああ、お名残り惜しいこと、また、来てね、ありがとう」
ゆっくりとだがはっきりと答える。そして指の先をそろえて小さく手を振る。そんなささやかなやりとりなのに、私はいつもたまらなくなって、病室をあとにしながら少し泣いてしまう。
悲しいわけじゃない、淋しいわけじゃない、やるせなくなって泣いてしまう。不思議とさわやかな涙だ。
週末には叔父やいとこも見舞いに来る。優しいミック(仮名)も来てくれる。祖母は彼のことが好きだ。とはいえ彼を覚えているわけではなく、会うたびにいつもはじめから好きになる。そして私とミック(仮名)を見比べて、嬉しそうに笑う。先日なんて「今度一緒にうどんを食べに行きましょう」とミック(仮名)を誘っていた。しぶいアプローチだ。
そういう光景を見ると、私も幸せになる。
今は時候がいいので、病院通いも苦にならない。穏やかな風が吹いて、新緑が美しい。すべてがきらきらしている。
この先祖母がどれくらい生きるのか知らないけれど、毎年この季節がくると、祖母のことを思い出すような気がする。
おかしな話だけれど、今の祖母には初夏がよく似合う。
それは、祝福されている感じがよく似ているからだと思う。

投稿者 shiori : 15:02 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年04月12日

日記: 近況

こげな天気が続いちょると桜も散ってしまうとね!
10日ぶりに九州から戻って来たとです!
気付けば当欄はエロ広告満開だったとです・・・
クリックしてくれたYOU、申し訳なかったとです。

・実は今回、後生大事にパソコンをうずんで出かけた私ですが
ネットにつなぐチャンスにも巡り合えず
かといってオフライン作業をする暇もなく
それは単なる筋トレグッズとして私の肩にのしかかるばかりでした。

・というわけでウェブを遠く離れて10日ほど
本日、各種ページの更新状況をパトロールしていたら
あっという間に日が暮れてしまいましたが
日常に戻っていく感じが何とも心地いいです。

・そんなことばかり言っているので「引きこもり?」などと揶揄されるのかもしれないですね。それをいうならかれこれ5年は引きこもりっすよ、と答えておいたものの、どういうレベルの回答を期待されているのかわからないような、大雑把な質問に違和感を覚えるあたりが世に言う引きこもりなのかもしれないです。個人的には「引きこもり」と「出ずっぱり」は一卵性双子児みたいなものだと思うのですが。

・この4月は異動の時期なのか、フリーダムの面々も随所に転勤されるようですね。淋しい、と言えば、普段そんなに会っていたのか、と切り返したくなりますが、やはり何となく淋しい。「会おうと思えば会える」可能性がぐっと下がるという数字に起因するセンチメンタリズムでしょうか。
何はともあれ、みなさん健康で。

・今日はマインマート(酒安売り店)で
サッポロ黒ラベル箱、南米ワイン3本、ボルビック箱、ペリエ箱
本屋で井上ひさし絶賛の日本語類義語辞典を買う。
母は『ダヴィンチ・コード』(上・下)を買っていた。
「ほら、ガンダーラだかムガールだか、今売れてる、ほら、あれよ」
と若い男性店員ににじりよっていた。
彼はよく推測できたものだと感心したが、よく考えると母が欲しがっていたのはもっと別なものだったのかもしれない。

・今朝一ヶ月ぶりにジムへ行ったら、三年半習った先生が突然辞めていてショックだった。彼女がいるから現在のジムへ通っていたので、追いかけて私もジムを変えることにした。(綱島→大倉山、プチ移動)
彼女のことがすごく好きみたいで恥ずかしいけれど、本当なので仕方ない。

・「出会いに照れるな」とは水道橋博士の口癖ですが、それは本当だ。
自分の下品さをいったん消化してゼロ地点に立たないと言えない言葉。

・九州に行ってそんなことを少し実感しました。

投稿者 shiori : 15:24 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年04月10日

日記: 霧島〜唐津3

朝から雨。しかし、めげずに出かけることにする。
佐賀は唐津方面を案内してもらうことに。福岡から車で1時間半、海沿いを西へ走ると唐津、さらに20分走ると呼子に着く。
この街はとにかくイカ。もうイカしかない。ということでイカ刺し定食を食べる。透き通っていて、歯ごたえがあって、甘みがあって、本当に美味しかった。いかしゅうまい、も有名らしいが、これはさほどでもなかった。
食べ終わったら、何の用もないので唐津へ戻る。
延々と続く松林に砂浜、昨日飛行機から眺めたのは唐津の虹の松原という名勝地だと判明。浜辺で唐津バーガーという香ばしい食べ物を売っていたので、買おうとしたら30分待ちといわれ断念。たいしたことないのは知っているが、ものすごく食べたかった。
唐津城の城下町としての佇まいが色濃く残る街なので興味はあったが、時間の都合でゆっくりできず残念だった。唐津焼きのお茶碗を祖母の土産に購入。唐津焼きにはめずらしい白地にピンクの花模様が入っていて、かわいいが2,500円もした。(後日談:2日後に母の手から滑り落ちて粉々に割れた、美人薄命)唐津焼きはなかなか高価でした。
帰りの車で呼子特産のゼリー「甘夏ジュレ」を食べる。とても美味しかったので、二口目を楽しみにしていたら、食いしんぼうのミック(仮名)が全部平らげてスプーンまでなめていて、愕然とした。福岡までいじめ倒した。
姪の浜に戻り、近所のスーパーで辛子明太子を買い、近所の『一蘭』でラーメンを食べる。これが実に10日間九州いながら最初にして最後のラーメンであった。しかも東京に支店のある店だった・・・でも満足した。
ミック(仮名)兄に別れを告げ、福岡空港へ。ようやく帰路に。
機内ではずっとビールを飲む。あのおかき、結構好きです(JAL)
長旅に出ると、色々と不便も多いし、少しずつ無理をするので体もしんどいけれど、旅に出る前に抱えていた疲労が消えていたり、心配事がどうでもよくなっていたりするのが嬉しい。3月は心身ともにいっぱいいっぱいで、あやうく溺れそうだったので、本当に助かった。
でも旅行の始終を思い出すと淋しくなるので、その晩は何も考えずにぐっすりと眠った。
さあ、次はどこへ行こうか。

投稿者 shiori : 15:06 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年04月09日

日記: 霧島〜唐津2

朝の景色が美しかった。眼下に濃い霧がかかっていて、下界の景色はまったく見えないが、頭上にはきらきらと朝日が光っている。何とも神々しかった。
朝食バイキングをたらふく食べて、祖母用おみやげを見繕って宅急便を送る。このホテルはまあまあ重厚感もあり、サービスもそれなりに良い。九州のチェーンなのかな、屋久島でも見かけた、いわさきホテルという宿。
大浪池という日本最大の火口湖に行く。火口のくぼみに水がたまってできた湖なので、登らないと見えないというのが難点だが、昨日の韓国岳に比べると、行く道の景色が綺麗で楽しめた。それでも石段はきつかった。
今日は土曜なので、家族連れと何度もすれ違う。どう考えても幼すぎる子どもが次々と登って来たが、ああいうのはギブアップするとお父さんが背負って登るのだろうか。だとしたら、お父さんてのは本当に偉い。そういう男はもっと権利主張するべきだ。女の戯れ言など一喝してしまえ、と思った。
霧島神宮にちょこっと寄る。桜が満開、風が吹くたびに吹雪が舞っていて素敵。かなり腰の入った立派なお宮だった。竜馬も絶賛した、と看板に書いてあった。どうやら霧島地区は竜馬でもっているらしい。
腹ぺこになって、『ロイヤルポーク 黒豚の館』に向かう。屠殺ショーでも見物できそうなネーミングだが、内実は田舎の定食屋だった。とんこつ黒豚カレーを食べたが、いつものことながら豚は美味しく、カレーは普通だった。お土産の焼豚などを買う。(これは◎だった)
霧島を引きあげ、宮崎に戻る。BGMは昨日からずっとサイモン&ガーファンクル(サービスエリアで買った)、いい加減飽きたが他に持ってないので仕方なく聞く。だんだん二人の仲が悪そうに聞こえてくる。(実際仲は悪い)それでもスカボロフェアはいい。ああいう玉虫色のメロディーはどうやったら思い付くのだろうか。
山から下りてくると、イモな宮崎も都会に見えた。空港でレンタカーを返し、飛行機に乗り込む。福岡まで35分。宮崎の生命線とも言える便なので、一日に10便も運行している。さよなら、宮崎。もう来ることはない。わけはない。ので特に何の感傷もなかった。
飛行機の着陸寸前に左手に、すごく美しいカーブを描いた砂浜が見える。宮崎の海よりぐんと温度が低そうだ。緯度でいうと3度近く北だし、積雪量もだいぶ異なる。地形や木の感じや空気も全然違っていた。
そしてもちろん、福岡は大都会だった。
博多近辺の姪の浜という場所に暮らすミック(仮名)兄の家を訪問する。夕食は、ミック(仮名)兄の彼女も交えて、刺し身と天ぷらを食べる。福岡は今回が4回目だが、いつもいい街だと思う。開放的で明るい。物価も安くて食べ物は旨いし、もう東京なんか住めない、とミック(仮名)兄も言っていた。
家に帰ると、ワイン通の彼はイスラエルの貴重な赤ワインを開けてもてなしくれた。先日の地震でボトルやグラスがだいぶ被害を受けたらしい。余震も頻繁だと聞いて、胸がばくばくする。が、酩酊するとどうでもよくなって、すやすや就寝。移動が多くて頭がぐちゃぐちゃなのか、夜中に目が覚めると、一瞬自分どこにいるのかわからなくて少し恐い。

投稿者 shiori : 15:08 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年04月08日

日記: 霧島〜唐津1

完治、というわけにはいかなかったが
強行してしまえば何とかなりそうな体調だったので
宮崎を離れることにする。昨日からの雨も止み、本日晴天。
さあ、どこへ行こう、と地図を眺めれば、宮崎がどれほど辺境の地なのか身にしみる。どこへ行くにもぐるっとまわらなあかんのですわ。
おまけに明日の晩は博多で約束がある。ことなどを考えて、霧島温泉に出かけることにした。つまり、また鹿児島に戻るわけです。
宮崎でレンタカーを借りて、霧島に一泊して、宮崎空港でレンタカーを返して、飛行機で博多まで。ホテルを予約して、慌ただしく出かける。
九州はいうなれば過疎の地なので、渋滞などは一切ない。おまけに春休みが明けてすぐの平日なので、不安になるほど人影はまばらだった。出発して2時間もかからぬうちに霧島に到着する。
せっかくなので山登りでも、と妙なスポ根を出して韓国岳に登る。思った以上にハードで、思った以上にどうでもいい山だった。頂上は一面霧におおわれて、むきだしの赤い岩にはカラスが止まり、不吉な声で鳴いては別の岩に飛び移る、なんともおどろおどろしい風景だった。
「なれの果て」とでもいうような朽ちた雰囲気と、一説には神々発祥の地と言われるように、霊魂が息づいていそうな生命感が同居している、奇妙な場所だった。どこまでも山深く、どこまでも霧は濃かった。こういう感じは本州にはない。
まだ日が高いので、高千穂牧場に動物をからかいに行く。ものすごいうんこ臭だった。ヤギの糞はばっちり粒ぞろいだった。
そんな中、結婚式を挙げているカップルがいて驚く。高原リゾートで挙式!みたいな馬鹿げたアイディアにうっとりしてしまったらしい。ものめずらしそうに振り返る通行人の視線にいっそう得意げに振る舞う新婚さんだった。こんな状況で堂々としていられるんだから、人生のたいがいの困難は乗り切れるはずだ、というのがミック(仮名)の意見だったが、私も同感だ。踏み絵のような結婚式・・・いや、それをいうなら、結婚式自体が踏み絵じゃなかとね・・・
気を取り直して、ホテルへ向かう。あたりにはもうもうと湯気だかガスだかが立ちこめていて、硫黄臭が鼻をつく。源泉がある証拠だ。
案の定、湯質はかなり良かった。かつて坂本竜馬が新婚旅行で訪れ、斬られた傷を湯治したとも言われているらしいが、私の小さな切り傷もあっという間に直ってしまった。何とも馬鹿でかい風呂で、しかも客はほとんどおらず、岩風呂からジャクジーから打たせ湯から一人占め、大声で歌ったりして満喫した。
食事は久々の洋食。しかし九州の特色として、食材は絶品だがコックの腕はもうひとつ、という点は他と変わらなかった。赤ワインは美味しかった。
食事のあと、もう一度入浴。そして前後不覚で就寝。
枕元で読むために携帯している文庫本、澁澤龍彦『世界悪女物語』は1ページも開いていない。

投稿者 shiori : 15:09 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年04月07日

日記: 宮崎3

朝起きたら、計画は台無しだった。
私は大風邪をひいたようだった。
発熱、扁桃腺の痛みに頭痛に悪寒。風邪薬を飲んでひねもす布団。
料理上手なミック(仮名)が具沢山の豚汁やらうどんやらを作ってくれた。一日中うとうと、ぼうっとして過ごす。長旅の疲れが出たのだろうか。
大倉山を離れてかれこれ一週間がたつなあ、としみじみ思った。
おばあちゃんが毎日30回くらい「しおりさんはまだ帰らんのかの?おらんとさみしいていかん」と繰り返すそうだ。
・・・。
夜にはだいぶ具合が良くなったが、明日は出発できるだろうか。

投稿者 shiori : 15:11 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年04月06日

日記: 宮崎2

引き続き上天気。
父は出勤せねばならないとのことで、大量多岐にわたる買い出し及び設置を依頼される。
「このあたりで何でも揃うといえば、どこの店ですかね?」
とタクシーの運転手に聞くと
「そりゃ、ナフコやね、あそこやったらピンからキリまで何でも揃う」
力強い言葉が返ってきた。
ナフコ、という気の抜けたネーミングを一瞬怪んだが、結果は上々だった。
それにしても濁音のない店名はやはり心許ない。ジャスコでもダイエーでもドンキーホーテでも成城石井でも、発語したときにしっくりするのだが、
「ナフコ」てのはどうも発音しづらいし、格好よくも可愛くもない。
と宮崎にまつわるすべてに批判的な私なのだった。
二口コンロ、ガス湯沸かし器、物干竿、風呂&洗濯グッズ、調理器具
メモされたものを次々と車に積み込み、買い物は一段落。
昼食に向かったのは、釜揚げうどんの店。
宮崎といえば忘れてならないのが、巨人軍のキャンプ地。
もし彼らがこの地に陣営していなければ、と考えただけでも恐ろしいのだが、この街は巨人軍、いや長嶋(と清原)さまさまなのだ。
彼らの訪れた店は誇らしげにサインを飾り、そうすることで売り上げをのばしているようだった。重乃井といううどん屋が有名なのだが、ここは芸能人御用達になっていてあぐらをかいているので「戸隠そば」という店の方が地元の人の信頼も厚く、確かにうまいぜあれは、とDr.Kが耳打ちしたので、そこに行くことにした。
確かに美味しかったが、こちらも十分芸能人御用達だった。中村雅俊が3回もサインしていたのが興味深かった。1回でいいですよ?
もちろん清原のもあった。
帰宅後、ミック(仮名)がオーディオの配線やBSチューナーの取り付けなど私には不可能なことを猛然とやってくれる間、私は台所の片付けなどをゆるい感じで終わらせる。
そして仕事あがりの父と一緒に、宮崎高級郷土料理店に向かう。
地魚の刺し身や天ぷら、最後には名物冷や汁も頂く。美味しかった。
清原がまたいた。
「清原の飲んだ焼酎はどれですか?」
と父がアホ丸出しの質問をすると、女将は「清原さんはビールしか召し上がりません」と答えた。彼女はとても愉快な人で「もう必要以上に大きくて、黒光りしていて、首の後ろのヒダがすごくて、牛みたいなんです」と教えてくれた。あたしも会いたいよう。
宮崎の人は基本的に明るく陽気で、親切だ。車で道を走っていてもそう感じる。強引な割り込みでも十中八九入れてくれる。
それでも、たいていの田舎の人がそうであるように、よそものに対する好奇心と警戒心が強い。ゴミ捨てのルールがやたら細かかったり、主婦の井戸端会議がありえないほど盛んだったり、「五人組」的な雰囲気が十分に残っていた。開票0.5%で自民党勝利が確定するような地域だ。
でも、子どもがのびのびして元気がよくて、いい感じだった。野菜は新鮮で美味しいし、犯罪もかなり少ないらしいし、幼少を過ごすにはいいところだ。でも青年期には、溢れるエネルギーを受容するカルチャーがないから、みんな福岡や大阪に出ていって、遠くにありて故郷を思うのだろう。
切ない感じのイモっぽさが印象に残った。
引越しもおおかた片付いたので、そろそろ宮崎を離れて
高千穂渓谷に行き、そのまま阿蘇山でも見に行こうと話し合う。
帰宅後、再び失神するように就寝。

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2005年04月05日

日記: 宮崎1

引越し日和の上天気。
明るいもとで見る宮崎は思ったよりも都会だった
ということは決してなく、むしろよりいっそうイモだった。
それでも南国特有の光の明るさがあり、ヤシの木ふうな街路樹を眺めていると、ずいぶん南に来たものだと実感する。
父のアパートは「デパート前」から車で10分ほど、近所に店も多く、ひとまず安心する。しかし、エレベーターなしの5F、が引っ越し泣かせだった。
午前中に荷入れと大型家具の設置を済ませ、昼食は近所のハンバーグ屋。
がっつりと宮崎牛を食し、近所のスーパーパトロールへ。
問題は品揃えなのだった。
わかりやすくロック音楽のCDに例えると、
ビートルズは3種類、ストーンズも2種類、
クイーンやエルトン・ジョン級はベスト盤のみ
ジミヘンはもちろんポリスなどは取り扱っておりません
ということはつまり、欲しいものは手に入らないのだった。
さらに驚いたのが併設の100円ショップ。
かなり広いスペースを占有していたので期待した、のが馬鹿だった。
なんとすべての商品が重ね置き厳禁、洗面器などがひとつずつ横に一列並んで売られていた・・・しかも埃まみれ・・・土地が安いとはいえ、もう少し営業努力を・・・
「す、すごいね、宮崎」と言いながら午後も片付け。
夕方までにはなんとか家らしくなる。
気のいいミック(仮名)が嫌な顔ひとつせず重い荷物を運び、汚いものを片付けてくれたので、父と私は大助かりだった。
夜は繁華街へ日向地鶏を食べに行く。
肉体労働のあとの生ビールは格別。焼き空豆が美味しくて、一人5さやほどをぺろりと平らげる。炭焼き地鶏という真っ黒の鶏肉もかなりいける。
焼酎も伊佐美ロックなみなみがなんと400円。感動して3杯ほど飲んですっかりいい気分になった。
味付けは鹿児島同様やはり甘く、少し首をかしげるところもあるのだが、
塩が美味しいことに気づいた。こくがあって、からすぎない。あれをつまみにぐいぐい飲めるほどだった。
帰宅後、さらに飲もうと試みたが、疲労で失神するように眠りに落ちる。
23時半のこと。

投稿者 shiori : 15:14 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年04月04日

日記: 鹿児島〜宮崎

温泉ツアーの日。ぴかぴかの上天気、気温25度。
朝10時、バンを借りて10名一行で指宿に向かう。
薩摩半島の突端、北緯31度(東京は36度)に位置する温泉郷で、鹿児島市街地より車で2時間弱。
レイアウト上あそこに座れと命令されて、最後部座席の真ん中、キョンさんと藤井さんの間に座らされる。二人とも180cm以上ある大男なので居心地が悪いうえに、車酔いして吐いたらどうしようと気が気ではなかったが、馬鹿話をしているうちに目的地に到着したので一安心だった。田んぼと畑をすり抜けて、開聞岳を横目で眺めれば、もうそこは指宿。
いざ、砂風呂!
受付で手渡された浴衣に着替え(下はすっぽんぽん)砂浜に行き、人型のくぼみに寝そべると、おばちゃんが砂をわっさわっさかけてくれる。砂から顔だけ出して、目を閉じること20分。波の押し寄せる音が実に心地よい。砂の重みで全身に圧力がかかり、身体全部が心臓になった気分だ。じわじわと背中とお尻が熱くなり、額から汗が垂れる。そのうちにちょっと我慢できないくらい熱くなってくれば、終わりの合図。
起きあがってみると、全身汗だくだった。湯につかっていないのに、湯上がり気分。とくした感じだった。
しかし、あの図はけっこう笑えた。土左衛門が横一列にずらっと並んでいるのだから。しかもみんな幸せそう。
湯上がりはやはりビール、ということで『地熱の里』というハードなネーミングの店に行く。生ビール2杯とかつおのたたき定食、たたきにはすでに甘い汁がかかっていた。郷に入りては、をモットーに完食する。麺狂いの人たちはちゃんぽんを食べて、麺や汁を詳らかに検査し、結果をもとに白熱した議論をしていた。検査をしているときの顔がおかしくて、笑いが止まらなかった。
窓の外に広がる芝生には暖かい日射しが降りそそぎ、何とも幸福な光景。こっそりビールを追加したら「しおり〜、こらっ」と下戸のマネジャーに渋い顔をされる。そんな殺生な。
そして向かうは露天風呂。
この人生で一番素晴らしい露天風呂だった。湯上がりにガッツポーズして握手したほどだ。真っ青な空、180度広がる大平洋、空と海の境目がわからない。ときおり船が行き交い、鳥が弧を描き飛んでいく。振り返ると雄々しい開聞岳。極楽だった。
100人は裕に入れそうな風呂は貸しきり状態で、それもまた功を奏した。「お〜」「はあ〜」と口々に溜息をつく、感動し通しの湯浴み。
ふと住所を見ると「鹿児島県揖宿郡山川町福元字伏目」と書いてあり、ここまで来ないとこの風呂は味わえないのだ、と妙に納得した。
薩摩はパワーがあるね。まじで。
帰路に着くが、風呂、ビール、風呂、とくれば次はお昼寝。ゆらゆらすうすうしながら鹿児島に戻る。大男たちの寝顔をこっそりのぞくと、48年間生きてきた顔をしていた。30年ではない、60年でもない、48年分の顔。けっこうぐっときた。
こちらは6時をまわってもまだ日が高い。私と藤井さんは鹿児島中央駅でおろしてもらう。彼はこれから種子島でライブらしい。他の人は最終便で東京に戻る。なんだか感傷的になった。
何かの縁で集い、そして別れる、一期一会の感じ。淋しくもあり、胸を張るふうもあり。人生は手抜きをしてはいけないとぼんやり思った。
厳密にいえば、また会うんですけれどね。
暮れなずむ鹿児島をあとに、私は6時の汽車で宮崎に向かう。

鹿児島から宮崎までは日豊本線で2時間。
時間が遅いとこともあったが、車窓からの景色は信じられないくらい
真っ暗で始終トンネルのようだった。
いくら目を凝らしても、自分の顔しか見えない。
乗客も少なく、退屈しているうちに居眠りをしていたようで
あっという間に宮崎に到着した。
この4月に父が宮崎に転勤になったので、引越しの手伝いをする
というのが宮崎入りの目的なのだが、私一人では埒があかないので
助っ人として東京から友人のミック(仮名)に来てもらった。
父と私とミック(仮名)は市内のホテルで落ち合う。
この街の第一印象は
「こんな田舎は見たことがない」
そして、最後までそれが覆されることはなかった。
あそこは「陸の孤島」と言われるように、本当にホントウに何もないんだから
と宮崎に来たことのある人は口をそろえて言っていたが
それは本当だった。
まず目ぬき通りと言われる一番街アーケードはどうひいきめに見ても
日吉の方が賑わっている。ミスタードーナツと無印良品がものすごくえらそうに見える。宮崎市民の娯楽はパチンコ、と相場が決まっているのか、
いたるところにパチンコ屋があり、いつ覗いてもそこそこ混んでいる。
そして、いわゆる銀座4丁目に相当する交差点は「デパート前」と呼ばれている。つまりこの街にはデパートはひとつしかないのだった。
それも山形屋(YAMAKATAYA)という4階建ての侘びしいデパート。
聞くところによると、宮崎は日本一物価が安い県ということだから、
平均所得もぐんと低いのだろう、高級品を陳列したところで売れないに違いない。
そんなシンボリックな交差点を通過して、宮崎にしては都会的な居酒屋に夕食を食べに向かった。
確かに安かった。そして美味しかった。
関さばの刺し身、一皿600円できらきらと輝いた稀少品が8切れものっている。宮崎牛のステーキしかり、サーモン刺し身しかり。焼酎を頼んでも、なみなみと注がれた黒霧島が400円。どんなにたらふく食って飲んでも、3000円を超えることはなさそうだった。ええっちゃが、宮崎。
しかし、この街にはフランス料理屋もイタリア料理屋もタイ料理屋にインド料理屋は、一軒もない。あるのは居酒屋と郷土料理屋ばかり。
残念だが、この街には住めないと確信した。
その晩は、明日以降の打ち合わせなどをして、早めに解散。
鹿児島での日々を想いながら、12時には就寝。

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2005年04月03日

日記: 鹿児島2

午前7時にぱっちり目覚めてしまう。仕方ないので朝食を済ませ、観光に出かける。桜並木を抜けて、西郷どんの銅像を眺め、城山に登る。ど〜んと桜島がそびえ、海の向こうには種子島。いっそう鹿児島が好きになった。
昼には鹿児島ラーメン、と思っていたが目当ての店は休業。九州に10日も滞在しながらラーメンを口にするのはずっと先の話なのだった。
午後からはリハーサル。(私はコーラス要員)
2時間強の着席型歌もの系コンサートなので、ロックとは多少勝手が違っていて、エレキギターがあんまりいばっていなくておもしろい。
楽屋で山下達郎の物まねなどをしながら和やかに出番を待つ。
ライブではよくありがちだが今回も、リハと本番で音がまったく変わっていて、やりにくいことこの上なし。が。そこは経験と気合いでなんとか乗り切る。演奏時間が二時間となれば、大小様々なハプニングが起こるものだが、他のメンバーも各々自力で乗り越えながら演奏を楽しんでいた。そういうのが素敵だ。
ということで、乾杯は薩摩郷土料理の店。
ひとつ重大なことに気づく。
醤油がべらぼうに甘い!
だけじゃない、すべての料理の味つけが甘い!
これにはちょっと参った。素材はめっぽう美味しいのだが、味つけが好みではないのだった。(これは九州全土共通の公式だった)
これからは素材のみをシンプルに食べる「まんま」料理をオーダーすることにしようと心に誓った。相変わらずハウス焼酎は美味しく、すっかりいい気分になる。そのあと再び飲みに行くが、明日に備えて早めに解散した。とはいえ帰ったのは午前1時。

投稿者 shiori : 15:19 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年04月02日

日記: 鹿児島1

お昼の便で羽田から鹿児島へ。
バンドのメンバー8名+PA+マネージャーの10名一行。
この一週間ほど毎日顔を合わせているし、昨日も北沢タウンホールでライブだったので仲はそこそこ良い。基本的に寄せ集めの仕事バンドなのでビジネスライクなのだが、一度ライブをするとぐっと関係が深まるのが音楽の素晴らしいところ。
一行の年齢構成は「52、48×3、34×3、30、25、15」
親戚の法事のようだ。
鹿児島は気温27℃、日射しも空気もまさに南国、旅気分が一気に盛り上がる。今日は単なる前乗りなので、宴会以外の予定はなし。うきうきと市街地パトロールに出かける。
鹿児島は初めてだが、好感度抜群。街も人も適度ににこにこしていて、豊かな印象を受けた。お金持ちで育ちのいい人特有のおおらかさがある。同じ南国でも沖縄ほどぶっちぎってないし、品がいい。薩摩言葉の抑揚もノスタルジックに響き、とくに女性の話し方が最高に可愛い。
薩摩藩はその昔、密偵を見破るために簡単には真似できない複雑な方言を作ったらしいが、大成功だ、ぜんぜん真似できなかった。
結局のところ、鹿児島の魅力は薩摩藩の功績なのだった。独自の文化と名士を数多く輩出した薩摩の底力を実感した。
それは食べ物もしかり。
本日のディナーは黒豚しゃぶしゃぶ。
う、うまい・・・でも食べ過ぎで飽きた・・・。
最後はスープにうどんを投入し、塩胡椒で頂く。美味しい。
この近辺で焼酎を頼むとハウス焼酎が出てくるのだが、これがまた美味しい。薩摩はすごいでごわす。
しこたま飲んで食べたのに、なぜか6人で再び飲みに行く。
今回新たにメンバーに加わったキョンさんお薦めのカフェ。彼はボガンボス時代もそのあとも鹿児島には頻繁に来ているようで、異様に詳しかった。(特にラーメン、食い過ぎだと思う)
これからも焼酎続きなのでここはあえてカベルネの赤を頼み、ブルーチーズを齧りながらチューニングの妙について話し、中国茶を飲みながら男女の妙について話した。どうやらその店で4時間も話し込んでいたらしく、ホテルに着いたら夜中の2時。なかなかスウィートな夕べだった。

投稿者 shiori : 15:21 | コメント (0) | トラックバック (0)