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2006年11月28日

日記: わりくう人形

 先日友人が実家に遊びに来た時に、人形棚をしげしげと見上げて「これは誰の趣味なの?」と聞いた。そうなのである、我が家には実に50体近くの人形があり、豆粒ほどの陶器製の動物なんかを合わせると100体はあるかしれない。それを階段の踊り場や梁に並べたり、重厚な人形ケースを設置したりして飾ってある。たいがいは父が海外出張に出かけて買って来たもの、マトリョーシカやロンドンの兵隊さん、南方の土人といった類いが所狭しと並んでいる。いかにも人形好きのふうである。父は「今度はこんな人形を買った」と嬉しそうに箱を開けるし、母はそれを大事そうに人形棚に並べていたし、父と母は人形が好きなのだと私が思うのは当然である。改めて問うようなことではない。
 それが数年前のことである。ある時不意に「人形のどこが好きなの?」と母に聞いてみたのである。すると意外な答えが返って来た。「ちっとも好きじゃないわよ、むしろ気持悪いくらい、パパが好きだから飾ってるの」
 へえ、と驚いた。それで今度は父に「人形、好きだね」と棚を指差して聞くと「いいや、ママが喜ぶから買ってくるだけで、僕は興味ないの本当は」と言うのだった。
 可笑しかった。夫婦のように、どれだけ仲睦まじく会話を重ねていても死角はあるのだ。理解と誤解は紙一重、我々の認識はその二つが一緒くたになっているのであって、「正しい」と感じていても正しくない場合は多分にある。人は自分にとっておさまりのよい認識を作りあげるもの、しかし生活に関していえばそれで十分だ。正しいも何もない、おさまりがよければそれが平穏なのだから。
 それで私は勇んで(言わずに済ます辛抱はない)、父がこんなことを言っていたと母に伝えると「こんなにたまちゃった後に気付いてもねえ」とあっさりした返答に拍子抜けした。
 確かに今更どうでもよいのだろう。100体の人形を前に理解も誤解もない。誤解が解けたところで捨てるわけにもいかないし、はたまた人形を好きになるわけでもないから、取り出して眺めるということもない。わりを食った人形たちは相変わらず棚の中にでんと鎮座するばかり、時折客人に「実は誰の趣味でもないんですよ」と説明されたりして、気の毒なことだと思ったりする。と書きながら、この話は以前に書いたような既視感に襲われたのだけれど、どうだったでしょう。

投稿者 shiori : 12:21

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