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2006年11月14日

日記: read again

 きっかけは何だったのか忘れてしまったけれど、このところ太宰治ばかり読んでいる。16の頃に読んで以来のことだ。現代国語の授業で、銘々が一人の作家を研究して発表するという課題が与えられたのだが、私はたまたま太宰治だった。仲の良い友人は梅崎春生だの若山牧水だのいうしぶいのが当たって文句を言っていたのを覚えている。アルコール依存症の詩人の心境なんか犬に食われちまえというのが健全な女子高生というものである。
 それで私は『富嶽百景』の作品解説のようなことをやって、最後のキメが最高に格好良いと思う、などとナマを言ったら「どこが格好いいんですか、自分に酔ってるだけじゃないですか」とこれまたナマを言われてしまって、しどろもどろになった。悔しかった。
 ちなみに『富嶽百景』の最後はこうである。
「その明くる日に、山を下りた。まず、甲府の安宿に一泊して、そのあくる朝、安宿の廊下の汚い欄干によりかかり、富士を見ると、甲府の富士は、山々のうしろから、三分の一ほど顔を出している。酸漿(ほおずき)に似ていた。」
 酸漿の赤い葉を少し割いて実の頭が覗いたときのはっとする心地、清々しいと同時にちょっと小癪で、それゆえにやるせない感じをずばりと言い当てて、そんな表現はなかなかできるものではないです、そういう感じがわからないようではあなたはきっと男性にはもてないでしょう、と今であれば言ってやるのだけれど、当時の私がどこまで理解していたかは怪しいもので、太宰という作家はわからなくてもわかったような気にさせてくれる才があると改めて感心するのだった。
 それにしても太宰治は狂ったように文章が上手い。今回一連の短編作品を読み返してそう思った。隙もないし、無駄もない。イントロとアウトロがここまでキマるのは太宰とベートーベンくらいである。16の時はそれこそ憑かれたように読んでいて、太宰の戦略にまんまとはまりうっとりと目を細めたものだけれど、32になってさすがにそれはない。もっと冷静だ。だから、なるほどそういう料簡ですかとほくそ笑む楽しみがあり、魅力的なことに変わりない。『富嶽百景』を読み返しながら、16の私は本当に若くて馬鹿だったとちょっといい気分になった。これもオサムマジックかもしれない。

投稿者 shiori : 11:29

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