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2007年12月12日

日記: こころ

 気付けばダウンジャケットを着込む季節になっていて、朝晩の冷えること冷えること、壁の薄い家はいけない。外気と室温が同じなんだもの。電灯に群がる虫のように、オイルヒータにへばりついている。それでも十二月は素敵。起きたはなから気持がうきうきしている。今日はせっせとコンピュータまわりの整理をした。一緒に働いていた旧友の笑うには、私は意外にも机が汚いらしい。しおりんの使ったあとの机、男みたい、と。知らなかった。確かにゴミをこまめに捨てないのはある。何かの上で何かを書いたりすることも多いし、書きなぐったメモもそこかしこに散乱している。それでも私なりに秩序は保たれているのだが、そういえば家人にも「貧乏揺すりはいけないよ」と言い含められたし、職場ではもう少し人目を意識したほうがいいのだろう。うむ。
 ふと思い立って、夏目漱石の『こころ』を読んだ。年表を見ると執筆されたのはざっと100年前、よく「まったく古さを感じさせない」という褒め言葉を聞くけれど、こちらとしては古さを感じたくて古典を読むのであって、『こころ』は予想通りしっかりと古くて、その古いところも実は古くないところも双方おもしろかった。ゆえに秀作なのだと思う。「こころ」なんてタイトルを恥ずかしげもなくつけるだけのことはある。
 高校の教科書に載っていたので読まれた方も多いと思うが、先生とKは同じ女の子を好きで、先生がKを出し抜いて彼女をものにするんだけど、Kは自殺してしまって、なんだかなあと思って今日まで生きてきたけど、明治天皇も死んだことだし、私はゆっても明治の人間。……死にますわ。砕いて言うと、そういう話である。
 まず、最近の人は「私は昭和の人間」とはあまり言わない。平成にいたってはますます言わない。時代精神を語るには昭和はあまりにも多くのことがあり過ぎたし、個の意識が強くなって、精神をひとからげに言うのがむつかしくなったのもあるだろう。だから時代に殉じて死ぬという感覚がわからない。わからないけれど、そういう時代があったというのはよくわかる。
 それもあって、小説の題材は陳腐だが(当時は斬新だったのだろう)結末はとても斬新に映る(当時は陳腐だったのかもしれない)。さしずめ昨今の小説だと、親友は死んだけど俺は生きてて、あれ以来万引きの癖が止まないだとか、女に暴力をふるってしまうだとか、でもまあ生きていますよあはは、猥雑な俺ってちょっと素敵。みたいになったりして、そう思うと、漱石は清潔だ。グールドの弾くバッハのように清潔。そういえば、グールドの愛読書は『草枕』だった。

投稿者 shiori : 11:14

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