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2007年12月02日

日記: 最後の晩餐

 一週間前ぐらいから祖母が呼吸するたびに「ああ、ああ」と切ない声をあげる。おばあちゃん、苦しいの、と問うても「ああ、ああ」と繰り返すばかり、しかもその声がやたら野太く、テレビが聞えないくらい大きいのである。「ちょっとうるさいんですけど」と母が苦情を言うと、祖母はけなげに口をつぐもうとするが、虚しくぱかんと開いて再び「ああ、ああ」。「冗談よ冗談、アアでもウウでも好きなだけゆうたらええわ」と母は祖母の頭を撫でるも、あれ、なんだろうか、と不安な表情を浮かべている。その「ああ、ああ」が下顎呼吸というものだと知ったのはその数日後のことだった。「とうとう始まっちゃったわね」と一目見て医者は言った。
 別名、努力呼吸といって、心臓の機能が著しく落ちると現れる症状らしい。つまり普通に呼吸したんでは酸素が取り込めないから、全身をフル稼働して呼吸をする。でも実際にはそれだけ頑張っても必要量の酸素は得られず、足先や手先にまで血液が行き届かず壊死していく(チアノーゼ)。下顎呼吸が始まると、遠方の家族を呼び寄せるのがならわしとのことだった。
 そして私たちは二つの道を示された。このまま栄養と水分を投与し続けるか、あるいは中止するか。投与すれば祖母の身体は消化しようと頑張るが、なにぶん消化能力も落ちているので苦しい。痰や咳がたくさん出る。でも命をつなぐことはできる。「おはよう」と私に笑いかけることもできる。いっぽう、投与を中止すれば身体の負担は確実に軽減できるが、脱水のため早々にも意識は混濁して十日前後で死ぬことになる。ざっとまとめれば、そんな話だった。
 簡単に考えれば簡単なのに、むつかしく考えると本当にむつかしい問題、生きているとそんな問いを突きつけられる時がぽつぽつある。いや、あるいは、私たちはむつかしく考えたいのかもしれないなと思う。問いの重みに釣り合うくらい、深く長く考えれば、ふさわしい答えが出てくるような気がするのだ。それでも今回の場合、これはあとになって初めて言えることだけれど、答えは最初から決まっていた。私たちはその答えに馴れる時間が欲しかっただけなのだ。
 家族が皆そういう気持でいたことは本当に幸いだったと思う、じゃあ日曜までは今まで通りにしようという話になり(母が暗にカレンダ−を見て予定をチェックしていたのが可笑しかった)、今日、私は「最後の晩餐だよ」と言って祖母に栄養と水分と薬(無駄だが一応)を投与した。「お腹いっぱいになった?」と問うと、すっきりした表情の祖母、目をくりっとさせてこちらを見上げた。私は声がつまって何も言えなかった。

投稿者 shiori : 15:22

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