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2006年08月05日

日記: オートマ

 幼少より折にふれて試みるものに、頭の中をそのまま書いてみよう、という遊びがある。とにかく頭の中に浮かぶものをひたすら自動筆記してみるのである。例えばこういった工合である。

 机の上の桃色のはさみが気になっている。手を伸ばせば届く距離にあるけれど、とるつもりはない。なんだかいやらしい桃色だこと、昨日100円ショップで買ったのだ。105円だった。105円ショップじゃないかと思ったけれど、もちろん言わなかった。思っていても言わないことはたくさんある。身体が汗ばんでいる。特に尻、尻が暑い。尻が燃えている。店員の女が肥満だった。肥満かどうか爪を見ればわかるようになる、というニュースを聞いたが、あなたは肥満です、と判定が出たら絶望するのか安心するのか、結局のところ同義なんですブレンディー。そろそろ歯医者がやってくる時間だ。祖母の入れ歯を出前してくれるのだ。おかもちに入れてきたら愉快だなあ、モンダミンは井森美幸のほう、二枠の、そう、篠沢教授のとなりの。

 むろんこのような駄文を書き連ねるのは憚られるので止めるけれど、続けようと思えばどこまでもゆけるのがこの遊びの特徴である。たいていは垂れ流して終るのだが、まれに工合のいいリズムとグルーブが生まれてアドレナリンの放出、ずいぶん楽しい時間を過ごすこともある。これは自動筆記でしか味わえない興奮である。脳の使い方として得るものも多い。
 これは何も「書く」に限った話ではなく、「弾く」でも「踊る」でも「描く」でも、同様の経験をしたことのある人は多いはずである。しかし、私は昔からこの表現形態には自慰行為にも似た恥ずかしさを感じていたから、誰のものだったか、この類いの文章を目にしたときにはずいぶん驚いたものだが、その後、90年代後半から文章でも音楽でもこの自動筆記の傾向はますます強まったように感じる。そこらの素人がブログで使うほど、浸透しているのだ。
 しかし危険なのは、自分がおもしろいことを言っているように錯覚してしまう、というのがこの自動筆記の落とし穴なのであって、実のところ発表して金のとれるような代物というのはそうそうない。素人が喜び勇んで真似するようなものではない、と深く感じ入ったのは太宰治の『俗天使』という小説を読んだからなのだが、これは思わずうなってしまった。素晴らしい自動筆記、ということはつまり自動筆記ではなく、そう見せかけた手動筆記なのであって、何度も推敲を重ねているに決まっているのである。そのあざとさというか、しつこさというか、さすが名人なのだった。

投稿者 shiori : 17:41

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