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2006年06月30日

日記: あしきをはろうて vol.2

 前回までのあらすじは前回を参照して頂くとして、とにかく祖母は窮地に陥った。なんとなれば、彼女の娘、つまり私の母が悪質な癌を患ったのである。発病した当時、母は現在の私と同じ年の頃であったから、永眠するとなるとこれは切ない話で、祖母は頭がはげるほど心配した、というのはもののたとえではなく実際に彼女の頭ははげにはげ、しかし「おい、おまえ、あたま、はげとるぞ」と祖父に指摘されるまで気付かなかったというのだから祖母の心痛は推してはかるべしである。
 当然のことながら、彼女は札束を携えて教会にお願いにあがることになった。さらには母の病床にその筋の偉いさんを呼び寄せて拝んでもらった。しかし状況は芳しくなく、たとえ手術をしたとしても救命できる可能性は低いと宣告された。いきおい祖母の頭はさらにはげあがり、札束はより高く積まれることになった。
 ちなみに母はクリスチャンである。ということは、祖母と母は全般的に相容れない教えを説く宗教を信じているのであって、それはもう犬と猿が相談事をするようなもので必ず喧嘩になるのだが、この時ばかりは、命を助けてもらえるならもう誰にだってお願いしちゃう、という点で二人は合意していて、母はイエス様に祈りを捧げながらも、天理教のおはらいも受けていた。ふたまた、というやつである。
 そして手術当日、前日より絶食して身体をからっぽにした状態で臨もうとするその朝、天理教の人が最後のおはらいにやって来た。そして神様のエキスのはいったこの生米を食えと言う。んなあほな、絶食しているので食べられません、と母が答えると、この米は特別だから大丈夫だと言う。んなあほな、無理無理、とあしらえば、祖母に「あんた、食べな死ぬぞな」と凄まじい形相と脅され、しかし結局母は食べなかった。
 当たり前である。宗教と科学はこういう段になると致命的に仲が悪くておもしろくて仕方ないけれど、これが笑い話になるのは母が奇跡的に助かったからであり、もし哀しい結末を迎えていたらと思えば背筋も凍る心地である。本当によかった。皆泣いて喜んだ。
 現在母があれほど手厚く祖母の世話をするのは、あの時一生分の心配をかけたという思いがあるのだろう、先日お茶を飲みながらそんな話になり、
「あのときは、お母さんに、ほんま心配かけたなあ」
 と母が遠い目をして言うと、祖母は椅子から落ちそうな様子で言った。
「ええっ、あんた、癌じゃったんかや」
 忘れているのである。す、すごいんである。それならそれでいいんだけど、と母も苦笑しながら
「でも、天理教に札束持って行きよったろ?忘れたん?」
 と聞くと
「ほうよ、あたし、天理教にはぎょうさんお金つこたんよ、あれどしたんかしらん、なんであんなに持っていたんかしらん」
 などと首をかしげたりして、夢から醒めたような顔をするのだ。
 これにはずいぶん驚いた。人生の終着駅とはこういった具合なのだ。あの炎のような情熱も鋼のような意志も泥のような哀しみも、空に吸われるように消えてしまって、残っているのは清々しい笑顔だけ、それはあまりにも圧倒的な風景で、私はそこから確かに何かを感じとるのだけれど、うまく言葉にできずにいる。それはとても大切な何かで、この印象を必ず留めておかねばと気が焦るのだけれど、焦ったところでわかることしかわからないと思い直して溜息をひとつ、祖母はそんな私を見つめて、ただ優しく微笑むだけ。

投稿者 shiori : 11:41

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