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2006年06月28日

日記: あしきをはろうて vol.1

 祖母はこの60年来、天理教の熱心な信者であった。親しかった従姉に誘われて入信したそうだが、人が宗教に入る経緯は些細であるにしろ決意めいたものであるにしろ、他人には計り知れないものである。とはいえ対象が何であれ、一つのことを長年にわたって思い続けるには数々の試練を乗り越えなければならず、祖母とて天理教に対して疑いや嫌悪を持ったこともあっただろうがしかし結果、60年間信じ続けたということは、彼女にとって天理教は魅力ある宗教であり、懸けるべきひとかどのものだったのだと想像する。
 私自身は特定の神を信仰しているわけではないが、信仰するという行為は非常によく理解できる。それがどんな宗教であれどんな形の信仰であれ、人は信じる神と真摯に向き合えば、「整えられた」とか「守られている」と実感できると考えるからである。それは精神が弱っている時ほど欲しい感覚であり、それを求めて懸命に祈ることは何の不思議でもない。イスラマバードでダッカで、サンクトペテルブルグでバイーアで、今も誰かが祈っているはずだ。とはいえ懸命が過ぎると滑稽なのは世の常、ましてや祖母はそもそも熱心を行動で表すタイプの人間なので、それはもう漫画の世界なのだった。
 まずは礼拝である。毎朝3時に起きて、家族の朝食を作る前に教会に赴き祈りを捧げる。教会まではざっと5キロ、それをあの小さい身体で飛ぶように走って往復したという。何かの都合で教会に行けない日は座敷にこもり、何十番までもある賛美歌を踊りながら歌った。昔、襖を細く開けて覗いたことがあったが、祖母は手をひらひらさせて狂ったように踊っていて、もうこれは宗教じみているというか、まあ宗教なのだけれど、とにかく圧巻だった。
 何をそんなに祈ることがあるのか、と訝るのだが、彼女にしてみれば世の中は祈らずにはおれないことばかりだった。やれ田植えだ稲刈りだ、やれ兄弟の出征だ、やれ子が生まれるやれ息子の受験だ、要するにそこに不安がある限り彼女は祈るのである。
 そして天理教というのは実に合理的だと感心するのだけれど、その教義のひとつに、献金をより多くした人により多くの幸福がある、というのがある。不安が多ければよりお金を積めばよいのである。この点においても、彼女は模範的な信徒であった。
 信者は年に一度、奈良県天理市にある本殿に参拝に出かけることになっているが、祖母は訪れた折には、賽銭箱とみれば必ず万札を投げ入れて歩き、ぱんぱんに膨れていた財布がぺったんこになったという。その様子を目撃した私の父はめまいがしたと言っていた。あまつさえその他にも定期的にまとまった額を献金していて、叔父の言葉を借りれば「家が二軒建つ」ほど天理教に散財したとのことである。
 祖母のような人が全国にぎょうさんおられるのだろう、おかげで天理教は街を作れるほどのお金持ちである。天理大学の蔵書数は日本一であり、国宝級の美術品なども数多く所有している。(余談ではあるが、キリスト教の場合であると、その者がその者なりの献金をすれば、神様はちゃんとご覧になっておいでで、少なかろうが多かろうが、はたまたその者が洗礼を受けていようがいまいが、望めば天国に迎えられる、というずいぶん大盤振る舞いといおうか、ダイナミックであるがゆえに不明瞭な教義を掲げているが、なんだかわかるようでわからんね、と首をかしげるのは私だけではないようで、日本国内においてキリスト教は不人気であり、信者数は全宗派を合わせても天理教の三分の一にも満たないという現状である)
 しかし実際に祈りが届いたのかどうかと言えば結果はまちまちで(当たり前だ)、しかし、神様に聞いてもらえなかったからいちぬけた、などとは思わず、自分の願いが傲慢だったかしら、とか、献金が足りなかったかしら、と自省を促すところが宗教なのであって、これまたうまいなあと感心するのだけれど、ある時、全財産を天理教に差し出してもよいと決意するほどの出来事が起きて、さあ祖母はどうなった、という話は次回に続く。

投稿者 shiori : 16:30

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