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2006年05月31日

日記: シオリはシオリが

 眠りにつく前に本を読むというのはもはや「用を足したら拭く」レベルに確固たる習慣で、どんなに酩酊していようがそこがブエノスアイレスだろうが、とりあえず頁を開くことになっている。そうしないことにはどうもおさまりが悪いとでも言おうか。しかしならばけっこう読むのでしょうと聞かれるが実のところ、興が乗って2時間読み進めることが年に5回くらいある程度、たいていは15分前後、ひどい時は2行、句読点に辿り着かないうちに本を閉じることになる。読書ともいわれない感じである。
 しかし皆さん、極度に眠い時にがんばって目を開けていてください、するとほら、視界がぐにょ〜んと歪み、場合によっては七色に見えたりするでしょう、もうこうなってしまってはどんなにおもしろい本も読むことはできないのだ。「イチ、ニイ、グウ〜」とのび太よりも敏速に夢の国へ旅立しかない。
 そんなわけで不眠に悩まされることはないとはいえ、朦朧として読んでいるせいか、寝る前に読んだ本の内容を忘れてしまっているのが口惜しくてならない。いきおいその晩の読書はどこまで読んだかしらと頁を繰ることから始めなければならないのだ。
 と言えば「しおりをお使いにならないのですか」ともっともな提案をする人があるがこれが問題、何を隠そう私はしおりが嫌いなのである。しおりにあるまじき心得なのだ。
 というのも幼少の頃にしおりの用途を説明された時「そんなもん、挟まんでも頁数くらい覚えられるわぼけ」と腹を立ててしまったんである。以来、途中で本を閉じる時には必ず頁数を暗誦するという習慣、あるいは意地があった。もちろん20代までは鼻くそほじりながらでもできた。しかし、このところ数字を覚えるのが難儀になってしまって、「よし、186ページ」とその瞬間は記憶するのだけれど翌晩には「……何だっけ」と首をかしげる有様で、このへんだったけかしらと同じ箇所を何度も読み返す羽目にあうのだった。
 だからなかなか本を読み終わらない。伊丹十三『ヨーロッパ退屈日記』なんてかれこれ一ヶ月くらい読んでいるのにまだ読み終わらない。ここは多分読んだよなあと思いつつ、どうせ忘れてるしなあともう一回読むのである。
 そんな調子だから、どこから読んでもいいように、好きな作家のエッセイの類いを読むことが多い。小説を読んで眠れなくなるのも嫌だし、好きかどうかはっきりしない作家のものを読んでおかしな夢を見るのも嫌だからである。今枕元に積み上げてあるのは筒井康隆『壊れ方指南』、保坂和志『途方に暮れて、人生論』、内田ヒャッケン『御馳走帖』、どれもとてもおもしろいのだけれどいつ読み終わるかは別の問題。
 蛇足。人がどの程度のしおりを保有しているのか知らないが、少なくとも私は皆さんより多く持っていると思われる。というのも昔から「しおりさんに、はい、しおり」とかなんとか、とっておきの冗談を飛ばしたかのような顔でしおりを下さる方が多く(特に年輩の方、特に母←自己満足か)、押し花だの格言だの様々なしおりがたまっていったという話。貰い物は簡単には捨てられなし、かといって意地でも使わないし、うむ、困った。

投稿者 shiori : 22:46

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