2006年05月17日
日記: greedy
夕食を心待ちにする感覚はもちろん昔からあったと思うけれど、常習的に飲酒するようになってからというもの、それはますますエスカレートして、今となっては豊かな夕食が幸福の必要十分条件になってしまった。二十代前半はビールと饗宴に夢中だったので騒いで飲めさえすれば満足だったし、二十代後半は酒に溺れていたので酩酊しさえすれば構わなかった。そして三十代、夜遊びする体力と気力はすっかり消え失せ、では何が残ったかと言えば、えげつないまでの飲み意地と食い意地なのだった。
健全といえば健全である。倦怠も憂鬱もない。しかしいかなる健全にも必ず不健全は潜んでいるのであって、私の場合、それは強欲なのではないかと。例えば。
おかずは最低4品は欲しい。内訳は肉、魚、温野菜、生野菜。週に2回はスープがあればよい。食材は決してかぶってはいけない。漬け物3種、煮豆などの常備食があればなおよい。白米は要らないが、チーズを食べる時にはバケットを薄く切って焼いたものが必要。酒に関してはまずビールを一杯(禁発泡酒)、のちに葡萄酒半分、白ならば安くてもよいのでシャブリを、赤ならばカベルネ:メルロー=8:2があれば上等、食事時間は最低でも一時間半、最後には緑茶を、今の時期なので新茶をずずずとすすっておしまい。
この穀潰し。という声が聞こえてきた。もっともである。しかしさらに白状すれば、上記内容の食卓を準備するのは7割がた家人たちであるのに、塩辛いだの味付けにケチをつける、まずいと食べない、宵越しの料理はほとんど手をつけない、買ってきたお惣菜には「作ったほうが美味しいね」と嫌みをいうなどの悪事の限りを尽くしているのである。でもへそを曲げられちゃかなわないので、ごますりやもみ手も忘れない。かれこれ三年、私はそうやって生きてきたのです。
しかしまあ傍若無人な強欲のかいあって、テキーラをあおっていた数年前に比べれば二日酔いの回数は激減した。前の日に飲み過ぎると翌日の夕食が楽しくないので、加減するようになったのである。しかし不思議なのだが、酒に対する執着心は以前にも増して強くなっていて、酒を飲まない夕食なんてヒデのいない日本代表、牛肉のないすき焼き、ひげのないマリオ、いきおい飲まずに済ますことが不可能であり、来る日も来る日も飲んでしまうのである。よく考えるとぞっとするので、普段は笑ってごまかしているけれど、日々の暮らしの中には楽しさと恐ろしさが平然と同居して、たかが一日されど一日、生活をなめたらあかんとよく思うのです。
投稿者 shiori : 17:58