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2005年09月08日

日記: 9/8

数日前にひどくがっかりすることがあった。
うまくいくと頭から信じていただけに、話を聞いたときはにわかには信じがたいものがあった。何がどうというわけではなく落ち度は自分にしかないタイプの事柄だったので、逃げも隠れもできず、久々に自分を無価値だと感じた。
ご存じのように、私は根拠も実績もないがなぜか自信たっぷりの強気な人間で、しかし日常にはその唯我独尊性を脅かす事柄がかくも多く潜んでいるわけで、今回のように「ま、まじ?」と青ざめることも少なくない。しかしこの手の人間は立ち直りが早いのも特徴で、案外すぐに「ま、次だな次」と言い出すのだが、世の中上手く出来たもので命に関わること以外は次がある。という発言自体がそもそも自信たっぷりだ、などと言い出すと、自分の尻尾を追いかけて回り続ける犬のようで、なんとも。
とにかく、あきらめないことといじけないことが肝要か思われます。

「ご存じのように」
などと語りかけてしまって思うに、まるで特定の人を意識しているかのように響くが、実際にはそんなことはなく、これまでだってそんなことはしたことはない。ではなぜ「ご存じのように」などとあなたに気安く話しかけてしまったか、すみません、単なる照れ隠し、あるいは婉曲表現になりますでしょうか。
しかし考えてみれば、モニターの向こうでこれを読む人をある程度特定することは可能で、例えば多摩丘陵のAさんとか9Fにお住まいのBさんとか別居中のCさんとか、しかし彼や彼女が私の文章をどんなふうに読んでいるかはまったくもってわからないことだ。
昼休みにサンドイッチを頬張りながら慌ただしく、かもしれないし、ビール片手に新しい恋人からの電話を待ちながら、かもしれない。それはあなた本人にしかわからない。
そういう意味で、文章を書く行為とは茫洋とした宇宙に向けて何やらおらぶようなもので、読む人を特定できたところで私の対峙する宇宙の広さは変わらないのだ。
しかし私がそのようにして書いたものを読んでいるのは、モニターを見つめたあなたであり、あなたは私の文章について何かしらことを感じるだろうし(あるいは感じないだろうし)、私という人間について思考を巡らすことがあるかもしれない。この密やかな個と個のつながり、というのが文章のおもしろさなのだと思う。読み手のない、箱にしまわれたままの文章は電池切れの時計のようなものなのだ。
ここに書き始めた当初はフリーダムの掲示板ということもあり、誰が読んでいて誰が読んでいないのか、あの人は何を思っただろうか、ということが気になっていたが、結局のところそういうのは貧乏臭い話で、書きたいのなら書けばよいだけで、また読みたいと感じる人が読んでくれればよいだけで、本当はとてもシンプルで自由な事柄なのだ。
(ミクシの足跡機能にはその基本路線に逆行するむきがあり不自由だと思う)
と、現在はこのような心境で筆をとっているわけだが、とにもかくにも、長い間読んでくださって本当に嬉しく思っています、ありがとう。

投稿者 shiori : 11:43

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