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2005年05月25日

日記: サトルとマモル

記憶喪失、アルツハイマー、認知症など各種記憶障害
というのは古今東西フィクションのかっこうのネタですが
確かにその悲喜こもごもたるやネタになるだけのことはあると実感します。
人間の脳とは実に不思議なもので、そこに1ミリに満たない傷がついただけで突然計算ができなくなったり、さらには傷も見当たらないのに1時間前のことが記憶できなくなる。愛するあなたが見知らぬ誰かになってしまう。
そう考えると、今かろうじてこのようにものを言えることが奇跡のようであり、逆にいえばいつ言えなくなってもおかしくないわけで
ずいぶんとギリギリなんです、私たち。
そのひたひたと迫る恐怖感は自己存在の不安定さに対するそれであり、死に対するそれでもあり、つまり、今この瞬間に、宇宙、とかいうわけのわからない暗澹たる空間にぽっかりと浮いた星の、これまたぽっかりと浮いた島の上で、いつもの赤い椅子に腰かけて、少し腹が減ったななどと思いながらキーボードをぱたぱた打つ私って、え?あってる?本当にここにいるんだよね、私って?
と一瞬前後不覚になりぞっとしてしまうような時
名前も言えるし住所もわかる、昨日は飲み過ぎて確かに頭痛がする、そろそろサトルが訪問してくる予定、10日ほど前にはマモルとセックスしたんだっけ、そうそう前戯が長くて退屈だった、そういえば遠足の日運動靴に画鋲をしこんだのはサトルの方だおそらく、死んだ魚の目をしていたもの、ニースのブイヤベースをまた食べたいキリキリの白ワインで・・・
という具合に記憶を辿っていくと、先ほどの恐怖感はいくぶん薄れる。
ああ、確かに私はこの世に存在していた、今も5分前も20年前も。よかったよかった、と安堵の溜息をつくわけです。
(実のところあくまで恐怖感が拭われるというだけで、自身の記憶が自身の存在を証明できるわけではない、記憶は十分誤りうるからです。なので論理ではなく感情レベルの解決にすぎない)※
ところが記憶喪失やアルツハイマーの場合には、振り返っても自分の足跡が見当たらない、消しゴムか何かできれいさっぱり消されてしまった。どこから来たのかわからない、だからどこへ行けばいいのかわからない。ああ、おそろしい。
海辺のピアニストの極度におびえた表情やアルツハイマー患者がうつ病を併発しやすい事実もうなずけます。そりゃ、不安でしょうよ。

記憶障害にはこれといった治療法がない、というのが現状のようです。
基本的には肝臓がんや前立腺肥大症や虫歯と同じ「ビョーキ」のはずですが、その事実に患者と家族が馴染みにくいのもこの病の特徴でしょう。
「あなた、どなた?」と母親に尋ねられたとしよう。
「ああ、息子のサトルだよ、母さん僕を忘れちゃったの?あんなにサトルサトルって言ってたじゃないか、最近だってちょくちょく菓子折り持って実家に帰ってたじゃないか、いくら病気だからってあんまりだよ、3年も会っていないマモル兄さんのことは覚えていて、僕を忘れるなんて。母さんは昔からそうだ、僕がいくら優しくしたって結局は兄さんがかわいいんだ。僕が誰かわからないような人の面倒は看れない(きっぱり)、兄さんに看てもらうか老人ホームに入るか好きにするといいや、とはいえ僕も息子だから金は出すよ、時々見舞いにも来るさ柏餅でも持ってね」
というわけです。
結局、人は「忘れられる=軽視されている=傷つく」という刷り込みを捨てきれないし、ひとたび自分の親切を忘れられると二回目の親切は腰が重くなる。「ビョーキ」だと割り切るのはなかなかむつかしいわけです。
そのあたりが癌とは違う、しかも体は健康だから生きますしね。
頭くるくる、からだ元気。

そんな特徴を合わせて思うとボケたくはないものだと溜息が出そうですが、切ないだ、かわいそうだ、みじめだ、と騒ぎ立てるのは往々にしてボケてない方の人々です。
何事でもそうですが、人はものの正しいあり方を決めがちです。記憶に関してもどこかで「正しく優秀な記憶のあり方」をイメージしている。それに対して、私は1割減、あの人は4割減、といったふうに点数方式で認識してしまう。アルツハイマーなんて即刻赤点ですよ。
でも、ところで優秀な記憶って何だ?それによって描き出される世界が正しいのか?と疑問が湧きます。
これは私の考えですが
世界というのは上野公園の西郷どんの銅像のように「ごらんなさい、あれが世界ですよ」と人々が右から左から指さしてうなずくようなものではないように思います。
だから「西郷どんの連れている犬はサトルみたいでかわいくないな」とマモルが言えば「兄さん、西郷どんが犬を連れてるなんて頭がどうかしちゃってるよ、ほら犬なんか連れてないじゃないか」とサトルが答える。
二人とも正しいのです。
おかしな言い方だけれど、西郷どんは犬を連れていると同時に犬を連れていないのですから。
というのも、世界は個人の認識システムに依拠して構築される、だからサトルとマモルは同じ時空にいながら二人の世界は全く別のものであり、またサトルの世界はハタチとミソジで大きく変化し、サトル次第で世界の限界は縮んだり拡がったりするが、サトルが死ぬとその世界は終わる。ジ・エンド。
世界とはそのように個人的なもので、銅像のように指差せるような実体ではないと思うのです。
となれば、人が他人の世界を認識することは論理的に不可能だし(鏡を見るような状態ですね、対象は永遠に鏡の外に出ていくことはない)、ということは他人との客観的な比較もできなければ価値判断もできない。
そのように考えると、記憶障害の人が認識する世界とそうでない人が認識する世界、どちらが正しい?だのいう話は馬鹿げているし、ボケようがボケまいが同じ、ということなのです。
根源的にすべて同等なのです。
そんなご託を並べたところでボケたばあさんのうんこは片付かないぜ、とマモルが怒鳴ったり、ボケちゃってみじめだぜというサトルが舌打ちするのも理解できますが、形而上と形而下、つまりは哲学と日常を分離してみると、自分の中に秘かに根付く傲慢で差別的な感情に気づくこともあり、同時にボケようがブスだろうが包茎だろうがリストラだろうが、堂々としていなさいと思う。優劣なんてものは亡霊に過ぎないのですから取り越し苦労ってもんです。
まあ、ボケている人に限っていえば、自分がボケていることがわからないからいたってのんきなもので絶望感はありません。毎日にこにこです。そういうのっていいね!
記憶障害の人々を見ていると、そんなことを考えます。

※記憶だって十分に間違え得るし、今あるこの現実が夢じゃないとは言い切れないし、感覚はもちろん錯覚の可能性があるから信じられないし、1+1=2とかいう数学的真実は確かに信じられそうだけど、神様が人間をあざむいて理性全体を狂っている可能性もあるし・・・
そうか!
今こんなことを考えている僕がここにいるってことは疑い得ないじゃないか!
とデカルトは膝をぽんと叩いて
「我思うゆえに、我あり」と言ったのだった。
何と言うか、男子はやはり勇気があるというか、神様があざむく可能性まで考えたら恐ろしくて外出もできなくなりそうです。

投稿者 shiori : 14:44

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